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巻頭エッセイ


第319号 「下積み時代」(ドミニク・ヨーマン)

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■ 1.巻頭エッセイ:<<ヴィッキー・ウォール生誕記念>>
              ドミニク・ヨーマン:「下積み時代」一挙掲載
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8月20日はオーラソーマの創始者、ヴィッキーさんの誕生日です。

その誕生日にちなんで、ヴィッキーさん特集として、ドミニク先生の「下積み
時代」をぱりさんの翻訳でお届けします。

すでにヴィッキーさんの自叙伝、『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』
を読まれた方は、その大筋をご存じでしょうが、実際にヴィッキーさんから直
々にオーラソーマを学んだドミニク先生ならではの秘話も織り交ぜて書かれて
あるので、とても興味深いです。少し長くなりますが、一挙掲載です。

ちなみに、ヴィッキーさんの『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』につ
いては、ここ↓。
http://aura-soma.co.jp/products/publication/book.html

ヴィッキーさんのオーラソーマの授業風景は、ここで、動画でご覧になれます。
http://aura-soma.jp/presentation/dvd.html

                                尚 記


        …………○…………○…………○…………


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ヴィッキー・ウォールとオーラ・ソーマの霊に捧ぐ
                   「下積み時代」(2003年7月)

●オーラ・ソーマの誕生

この世に関するかぎり、オーラ・ソーマは1983年の夏の初めに誕生しまし
た。
ある初夏の朝、ロンドン近郊の村の共有緑地の片隅にある小さな家の朝の食卓
に、水と油の二層になった色水を満たした何本かのガラス瓶が日の光を浴びて
いました。
それは昨夜、まだ暗いうちに作られたばかりでした。

その美しい色は人の目を捕らえて離しませんでしたが、その価値についてはま
だほとんどわかっていませんでした。
それから七年もするうちに、これらのボトルは初期のニューエイジムーブメン
トのひとつの現象となって、イギリス中央部の田舎の小さな村に世界中から人
々を引き寄せることになります。
人々はオーラ・ソーマを、その色の約束と潜在能力についてもっと知りたがり
ました。
それから20年の内には、オーラ・ソーマは52カ国以上の国々に広がり、2
万人以上の学生がそのトレーニングシステムを受講することになります。

しかしこの最初の静かな夏の朝には、まだその可能性は予想だにされていませ
んでした。
それらがどうしてそこに現れることになったか、それ自体がひとつの物語です。

それを知るために、ヴィッキー・ウォールというある独特の女性を紹介しなけ
ればなりません。


●ヴィッキー・ウォールの生涯

ヴィッキーは1918年にイギリスで生まれました。
彼女の少女時代は、ディケンズの言葉でいう最上のとき、最悪のときでした。
彼女の父親との関係は並外れて深いものであり、おそらく彼女の全生涯での最
大の宝物でした。
しかしまた、この関係は厳しい試練に晒されてもいました。
彼女の父親は肉体労働者であると同時に、ユダヤ教ハシディズムの霊的伝統で
のカバラのマスターでもありました。
彼女は彼の七番目の子供であり、父親も同じく七番目の子供でした。
このことで彼らは生の隠された神秘に対する深い感受性を共有していました。
霊的な教えをもっと学びたいというのがヴィッキーの大きな望みでしたが、女
性であるためこの伝統の中ではそれは不可能でした。
しかし彼女の父親は、彼女が植物や自然の世界に関する内なる感受性と知識を
発達させることを助けることができました。彼は彼女をロンドン中の公園に連
れていき、道々出会う植物の効能を言い当てさせました。
その植物にはどんな効能があるか、それは何に役立つと思うか、と質問しまし
た。
こうして彼は彼女の内なる天賦の才を養育したのです。


もうひとつ彼らが共有し、またヴィッキーの将来を大いに占うものとなったの
は、ヴィッキーのオーラ(人々の周りに広がる色)を見る能力でした。
自分にその色が見えるため、子どもが無邪気に推測するように、彼女はそれが
当たり前なのだと思っていました。
彼女の誕生日のこと、嬉しさの余り彼女はみんなのまわりの色がとても素敵だ
と言いました。
自分の贈り物を明かしたばかりに、彼女はみんなの笑いものにされました。
その夜、涙ながらに起こったことを話した父親から、彼女は初めて慰みを得ま
した。
彼は自分もその同じ色を見えること、だから彼女は間違ってはいないこと、で
も世の中はまだその準備ができていなのだと教えてくれました。
彼は彼女の掌にキスをしてそれを閉じ、このことを二人の秘密にしておこう、
そして世の中がその贈り物に対して準備ができるまで彼女の手の中に入れてお
こうと教えたのでした。


この黄金の日々に影を落としたのはヴィッキーの継母でした。
父親はヴィッキーの母親の死後、家族全員の世話をするため再婚しなければな
りませんでした。
いくつか理由があって、ヴィッキーとこの継母の関係は最悪になっていました。
あまりにもひどくなったため、できるようになるとすぐにヴィッキーは家を出
ざるをえませんでした。
その傷跡は深く残りましたが、ヴィッキーがこの時期を自分の魂が鍛えられた
時期として描いているのはヴィッキーのスピリットの印です。


人生が彼女を最初に連れていったのは薬屋のホースレー氏のところでした。
ヴィッキーが出会ったときすでに老年になっていた彼は古い時代の薬剤師で、
彼が学んだ技術は調剤師が代用医であった古い時代のものでした。
代用医とは、現代の単なる薬剤師ではなく、薬草を調合して自分で直接医薬品
を作る人でした。
そのうえ、当時のイギリスとしては大規模なものだった彼の薬局は世界中から
薬草を求めていました。


ホースレー氏のもとで過ごした時期は、父親との公園の散策で培った植物に対
する内的な感受性を、彼女が実地に応用する基礎を与えました。
ホースレー氏のもとで、彼女はクリームやローションの作り方を学び、実際そ
ののち薬剤師の仕事を離れてからも、小規模ながらクリームその他の製品の調
剤を続け、自分の患者に使用していました。
彼女が自分の実験室と呼んでいた場所に持っていたそれらの材料こそが、後年、
最初のオーラ・ソーマ・オイルを創造するための物理基盤となったのです。


薬屋の仕事は人々に直接働きかけたいというヴィッキーの欲望を満足させなか
ったので、彼女は王立足治療協会(Royal College of Chiropody)に通って勉
強しました。
彼女はこのカレッジを卒業した最初の女性でした。
続く20年ほどの間、ヴィッキーはクライアントの足の治療をしましたが、足の
世話をしながら常に魂により深い関心を寄せていました。
彼女はもうひとりの女性パイオニアで最初の頭部整骨医のひとりであったマー
ガレット・コックビンと、ロンドンの近くで診療所を開きました。
このふたりの関係は、これ以降生涯にわたるパートナー関係となりました。
毎朝職場に向かう途中、ふたりは車を停めてその日の祈りを捧げました。


ヴィッキーの生涯は何回もの浮沈を通り抜けました。
最もヴィッキーを形成したもののひとつは、これも彼女の魂を鍛えたのですが、
彼女の糖尿病との闘い方でした。
食事療法への配慮から、彼女は何年もの間インシュリンの注射を止めては医者
を困らせました。
このことでも彼女はパイオニアで、あのような大量のインシュリン摂取を完全
に止めたイギリスでの最初の患者でした。


ヴィッキーが結局、最初は片目を、次いで両目の視力を失ったのは、彼女の糖
尿病との合併症の結果でした。
このため彼女はマーガレットとふたりで予測していたより少し早めに引退を余
儀なくされました。
二人はクリニックを売り払って老後を楽しむことにしました。
二人が引退に備えて貯めたお金を失っては、住み続けるのは無理でした。
ヴィッキーの反応は取り乱して落ち込むのではなく、彼女の表現によると、そ
れを「安逸の眠りを覚まされる」と受け取ることでした。
彼女はさらに深く祈りと瞑想の生活に入り、まだ自分にすべきことがあるかど
うかを見極めようとしました。
オーラ・ソーマのインスピレーションが彼女にやってきたのは、この期間、こ
の魂の暗夜においてでした。


そのインスピレーションは夢の中で彼女にやってきました。
後に彼女はそれを「色彩の波、かすかなため息をついて押し寄せる波」と叙述
しています。
想像を絶する色彩の美でした。
そしてその波とともに「水を分けなさい」という言葉が来ました。
彼女が手を伸ばしてその色彩に触れようとすると、それはまた後退しました。


このヴィジョンは三晩続けてやって来ました。
最初の二晩はそれにどう応えてよいのかわかりませんでした。
特に「水を分けなさい」というその言葉に。
約束の地に人々を導くモーゼのようには感じなかったのです。


しかし三日目の夜、色が彼女の手から流れ落ちるとき、彼女はこれは彼女のた
めの贈り物ではなく、自分を通じて人々に分かち合うべきものなのだと理解し
ました。
気がつくと真夜中でしたが、彼女は起きあがって、階下の油や原料が置いてあ
る小さな実験室に行き、まるで他人の手に導かれるように、最初のオーラ・ソ
ーマ・オイルが創られたのです。


しかしまだオーラ・ソーマが誕生した目的は想像もつきませんでした。
その同じ夜、オーラ・ソーマという名前が彼女の所にやってきて、クリスタル
のエネルギーをそのオイルに封じ込める特別な方法も伝えられました。


こうしてその数時間後に、食卓の上に乗っている最初のオーラ・ソーマのカラ
ー・コンビネーションがマーガレットによって発見されたのです。


●初めのころ

まだこの時点では、カラー・コンビネーションの可能性ははっきりしていませ
んでしたが、ヴィッキーはマーガレットにそれには何の害もないと保証しまし
た。
これらのボトルの魅力的な色と目を引く質に説得されて、二人はまもなく自分
たちが参加することになっている博覧会に持っていくためにもう少し作ること
にしました。
彼女たちはすでにヴィッキーが多年にわたって作ってきたクリームを持ってい
って売ることにしており、そのブースに人目を引きつける役をそのボトルがす
るだろうと考えたのです。
それがどれほど魅力的であるかを二人はまだほとんど知りませんでした。


最初から人々はその色に引きつけられました。
最初のお客さんの様子は実に意味深く記憶に値するものです。
セットアップが終わるとすぐにひとりの男性がやってきて、それらのボトルを
見てある一本のボトルに引き寄せられました。
それはガラスの陳列板を支えるためにディスプレーの下に置かれていたボトル
でした。
それがそこに置かれたのは、いくぶん曇っていたので、ヴィッキーとマーガレ
ットがそれは他のボトルよりも魅力がないだろうと思ったからです。
しかしその男性が欲しがったのはそれだったのです。
二人はそれを取り出すために陳列したボトルを下ろし、それに惹かれた男性は
そのボトルを買って立ち去りました。


このことからヴィッキーとマーガレットは、なぜ人によっては最善のカラーサ
ンプルではないものに引きつけられるのか、という疑問意識を抱きました。
続く何日か、たくさんの人がやってきてはボトルを買い、ヴィッキーとマーガ
レットはそれらのカラー・ボトルがどのように人々に働きかけるのかについて
学び始めました。


二人は、濁ったボトルに引き寄せられる人々は、一般的に、そのときその人た
ちの生活が普段とは違った変化の時にある人であること知りました。
二人はまた、オイルを自分の身体に塗った何人かの人たちからのフィードバッ
クも受け取り始め、その人達の状況に変化が起こったことも知りました。
ヴィッキーとマーガレットは医療の領域で訓練を受けており、その仕事をして
きたので、このことに特に興味を持ち、どの色のコンビネーションがどのよう
な条件に役立つのかという予測をし始めました。
ある意味でこの調査は彼女たちのトレーニングと経験の所産です。
しかし最初から、オーラ・ソーマがスピリットの贈り物であることははっきり
していたので、二人は間もなく魂のセラピーという言葉を造語しました。
身体と感情とマインドとは、時間を通じた進化の旅で、時空を旅していく魂に
とっての体験の領域にほかなりません。
まもなくオーラ・ソーマが物理的なツールではなく、霊的なツールであること
がはっきりしてきました。


オーラ・ソーマは急速にヴィッキーをマーガレットの生活を巻き込んでいきま
した。
これらのボトルは単なる売り物以上のものになりました。
ヴィッキーにとってそれは、彼女の天賦と才能を分かち合うことができる手段
でした。
彼女は間もなくそれらを「魂の窓」として語り始めました。
コンサルテーションの手順はクライアントが(当初は)3本のボトルを選び、
このボトルからその人達の魂の色、この生涯での魂の旅、また非常にしばしば
過去世との共振によってヴィッキーが受け取ったものを分かち合う形に進化し
始めました。
ヴィッキーとマーガレットはオーラ・ソーマについて教えてほしいという招待
状を受け取り始め、またヴィッキーはもっと公式の形で情報を分かち合うよう
に求められました。
1985年の夏、二人はグラストンベリーの近くに住む夫婦からそのような招待を
受け取りました。


●マイクとクローディアが参加

彼らの出会いの物語は面白いです。
1985年の晩春、マイクとクローディア夫妻はモールヴァン(イングランド
西部のヘレフォードアンドウェスター州のモールヴァン丘陵の東斜面にある保
養地、毎年演劇祭が開催される)の博覧会で、あるマンダラ絵画の展示をして
いました。
客の合間に二人は植物やクリスタルなど自然素材の合成色によるヒーリング・
システムの可能性について話していました。
クローディアはブースを離れて博覧会場をぶらつき始めたのですが、じきに興
奮して戻ってきました。
彼女はその会場でちょうど今二人が考えていたその色のヒーリングシステムを
展示しているのを見つけたのです。
マイクはすぐには見に行きたがりませんでしたが、しばらくしてそれを一目見
に出かけました。
そのシステムの責任者が盲人の女性だと聞いたので、誰かと熱心にカラーボト
ルについて話をしていた白い服のその年輩の女性が、突然その会話を中断して、
彼の方に振り向いてまっすぐ彼を見つめ、

「会場のエネルギーがひどいのよ。あなたなんとかしていただけません?」

と言ったときには非常に驚きました。
思わず引き込まれ、何とかしましょうと言って、彼は会場の四隅に行って、屋
内にいいエネルギーを招き入れました。
それから彼は、何よりも好奇心に駆られて、その老婦人のところに戻りました。
彼が近づくと、再び彼女は彼の方を向いて

「ずっと良くなりましたよ。私たちは一緒に仕事をすることになりそうね」

と言いました。


これが、マイクとクローディアのオーラ・ソーマの物語への登場場面です。
ヴィッキーとマーガレットは1985年9月に彼らの家に行ってオーラ・ソーマを
贈り、それから間もなく、マイクがヴィッキーとフルタイムで仕事ができるよ
うに、マイクとクローディアはロンドンの町はずれに引っ越しました。
この場合のフルタイムというのは、一週間に七日の意味です!
この強烈さは、この5年半後の1991年1月にヴィッキーが他界するまで終
わることはありませんでした。
またその後もその強烈さは終わらず、仕事の内容は変わっても集中度はそのま
までした。


私がひとりの若者としてオーラ・ソーマに参加したのは、このマイクとクロー
ディアの家でのコースで、1985年の9月のことでした。
当時私は大学での学業を終えたばかりで、台頭しつつあったニューエイジの分
野で自分の道を模索していました。
実際私は、ある博覧会場の展示を見てオーラ・ソーマについて詳細を問い合わ
せ、偶然電話に出たヴィッキーと話したことがありました。
ヴィッキーは、たくさんの人にそう言っていたと思いますが、

「これはあなたがわたしに辿り着いたというサインね。あなたは次の展示会の
 コンサルテーションに来なくていけないわね」

と言いました。
私はちゃんと登録したのですが、ヴィッキーのコースが満席で、別の講師でし
た。
とはいってもオーラ・ソーマに一歩近づき、そのセッションの結果、私は9月
のヴィッキーのコースに登録できました。

しかし私が辿り着くには、もうひとつハードルが残っていました。
当時借りていたところはコース会場から7マイルも離れていたため、車を持っ
ていない私は午前10時に始まるコースに出るためにとても早く出発する必要が
ありました。
私が到着すると、正門のところでマイク・ブースが迎えてくれ、握手をしてイ
ベント会場に連れていってくれました。


●初期のコース

このコースの感じと雰囲気はその後私が参加することになる初期の頃の多くの
コースと似ていました。
そこには、ある興奮した空気と、何かこの世ならぬものの感じがいっしょにな
っていました。
この印象は、初期の頃の会場がしばしば思いっきり風変わりで古風な家具が置
かれた普通の家のリビングルームで、それが他の部屋から持ち込まれた椅子で
いっぱいになっていたという事実にも関係あるでしょう。
正面には白い布の上にオーラ・ソーマの宝石たち、その場の焦点であるカラー
ボトルが並んでいました。
そのまわりには降霊会の小道具のようにさまざまな手書きの印が並べられ、
20世紀初頭の神智学の集会もかくやと想像される雰囲気で、まるで別の時間
に引き戻されるようでした。

当時ヴィッキーは立ったまま、しばしば

「起き上がりなさい、我が子らよ」

というような言葉で一日のコースを始めたものでした。
彼女はポマンダーをみんなに分けて、私たちが自分の寺院(肉体と個人的な空
間)と、その場の空間という寺院を浄化できるようにしました。
彼女はロウソクを捧げ持って、私たちを瞑想に導きました。
それから私たちは、魂とスピリットを語り,植物とクリスタルについて、生と
人間の経験について語る彼女のインスピレーションの飛翔による講義を受ける
のでした。
話している間はずっと、まるで彼女自身が旧約聖書の預言者でもあるかのよう
に、聞き慣れない聖書風の文体で話しました。

これらの初期の頃の巡回講義は、そのままデヴォーラの初期に融合していきま
した。
オーラ・ソーマが自分でセンターを創設するところまで定着した時期でした。


●テットフォードへの移転

美しいけれども遠い田園地帯に位置するこの静かなテットフォードの村は、優
しい緑の丘に囲まれていました。

デヴォーラとは、1987年にオーラ・ソーマの常設センターとするために
1987年に購入された建物の名前です。
それはしばらく無住になっていて、屋根には鳩が巣を作り、庭は荒れ荒れ放題
になっていた古い牧師館でした。
しかし自発的な助力の手と家具や什器の寄付のおかげで、この館は1987年
の夏の間に活気あるセンターに変身しました。
1987年の10月、最初のコースがデヴォーラで開講されました。
続く数年間、デヴォーラは春から秋まで、30のコースとそれ以上の講師が世
界中からの引き寄せる学生でいっぱいになりました。
最初期の頃は各部屋を4人以上でシェアし、勉強、料理、食事、洗濯の共同生
活をしました。
それは大いなる興奮の時期、混沌たる中にも何か特別なものが始まりつつある
という感じが横溢していました。
これこそがオーラ・ソーマの第一波でした。

                  ドミニク 記  (ぱりさん 翻訳)
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