第195号 【パリさん】:ギフトとチャレンジ(2)
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:ギフトとチャレンジ その2
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オーラソーマでは、2番目に選んだボトルを、「ギフトとチャレンジ」として
見ていきます。
というのは過去のお話しで、最近は、「ギフト」ということだけに焦点を当て
るようになっていると聞きました。
どうも、「チャレンジ」というとネガティブなことのように思ってしまうよう
ですね。
オーラソーマのコンサルテーションをする人も、この2番目のボトルを説明す
るときに、ネガティブな側面に光を当てて説明すると、それを聞いた人が、そ
れを聞く準備ができていない場合には、ジャッジされた印象を受けたり、傷つ
いたり、というような危険もあるので、オーラソーマとしての方針を変えてき
ているようです。
実際、せっかく好きで選んだボトルなのに、あまりいいことを言ってもらえな
いと、せっかくセラピューティックボトルとして、自分の変容のプロセスとし
て使うべきボトルなのに、使いたくなくなったりして、逆効果、となってしま
います。
とりわけ、日本人は、いつも自分の悪いところばかりを探していて、いいとこ
ろを見ようとしない(謙遜してしまう)傾向がある、と外人からはよく指摘さ
れます。
また、これは男性と女性とでの受け取り方の違いもあるのかもしれません。
女性は褒められ、評価され、愛されることで成長しますが、男性はけなされた
り、チャレンジがあったほうが、なにくそ、というので成長したりもします。
でも一見豊かになった日本では、今やハングリー精神の時代は去り、男性も女
性化してきているので、あまりチャレンジというのは流行らないのかもしれま
せん。
でも実はチャレンジの中にギフトが隠されていたりもするので、チャレンジを
避けて通ると、一見なんでもない石に見えるダイヤモンドの鉱石に隠されたダ
イヤモンドを見逃してしまうようなものです。
訥弁だったデモステネスが雄弁家として有名になったのも、チャレンジをギフ
トと変容させることができたからです。
ぱりさんは「性格の肯定的側面」と「課題となる性格の側面」ということで、
同じ人格の裏表、というふうに解釈しています。
人間というのはそういうもので、完璧な人間というものはなく、さまざまな側
面を持っているという意味では、そのようにも考えられます。
天使と悪魔、光と影の側面というのは、人間なら誰しも多かれ少なかれ持ち合
わせているものです。
人間というのは、虹の架け橋。
天と地とを結ぶ虹の架け橋。
天と地にかかる虹色のすべての可能性を生きていくこと。
それは虹色のすべての側面を生きていくようにもできていると思うんです。
オーラソーマでは、それを色の側面で見ていきます。
でもそれらの色のさまざまな側面は、同じエネルギーの現れ方なのです。
例えばレッド、情熱と怒り。
性格の肯定的側面が「情熱」で、課題となる性格の側面が「怒り」かというと、
そうでもないのです。
性格という、心理学における性格の分類とか、体型による分類とか、さまざま
な分類がなされていますが、それらはエネルギーの使い方のパターンにすぎま
せん。
そのパターンが固定化してしまって、無意識化されると、性格のようなものに
なってしまうように思います。
意識的であれば、それは状況に応じて、いつでも変化自在に変えることができ
るはずです。
レッドのエネルギーは、パッション、情熱として肯定的に使うことができるも
のなのですが、そのエネルギーがクリエイティブに使われずに、抑圧されたり、
ブロックでせき止められると、それが怒りに変わったりします。
でも怒りというのは、実はよく見てみると、その怒りを感じるところに、自分
が大切だと思っているものが潜んでいたりもするので、自分は何を大切に思っ
ているかに気づかせてくれるものでもあります。
それに気づけば、それは大切なものに対する情熱が怒りというエネルギーにな
っていることがわかります。
それに気づけば、その理解があれば、怒りという破壊的なエネルギーとして発
散したりしなくても、そのエネルギーをクリエイティブに、意識的に使ってい
けるようにもなります。
その怒りをさらに抑圧すれば、恨み、辛み、小言となり、さらに抑圧すると、
あきらめや無力感、ついには自分の感情を感じられなくなってしまいますので、
要注意です。
ですから、大切なことは、そのエネルギーのバランスをとるということなので
すね。
情熱だからそれは肯定的な側面で、怒りだからそれはネガティブな課題で、そ
れは排除すべきものであり、抑圧しなければならないと思ってしまうところに
間違いの種があります。
それらは同じエネルギーの側面であり、いいとか悪いとかという問題ではなく、
それをどのように意識的にそれを使っていけるのかということが課題なのです。
同じエネルギーでもそれが過剰になっても、少なすぎても、そこにはエネルギ
ーのひずみが出てきます。それが課題的側面となってきます。
それをエネルギー的にバランスをとってくれるのが、オーラソーマでもありま
す。
それはそのエネルギーに意識的になることによってです。
どのような「課題」となるエネルギーに対しても、意識的になることによって、
そこには「肯定的側面」つまりは、そのエネルギーのエッセンスが隠されてい
ることがわかってきます。
ギフトとチャレンジというのは、そのエネルギーに隠されたエッセンスに気づ
いていくプロセスでもあるのです。
実は、サトルボデイヒーリングなどでは、そのエネルギーのエッセンスを見て
いきながら、そのエッセンスを輝かせていくことをしていきます。
そういうプロセスを見ていると、オーラソーマというものも、その人のエッセ
ンスを輝かせていくためのツールとして使うことができるものだという可能性
も見えてきます。
そのような観点から見ると、課題的側面はそれが問題ではないのです。
それはエネルギーのバランスが崩れている状態を表し、そのなかにエネルギー
のエッセンスを見出していくことによってそれは変容するものであり、本来持
っているエッセンスとしての可能性を輝かせていくことができるものとして見
ていくことができるのです。
そのように見ると、天使と悪魔、光と影は、別々の対立するものではなく、同
じエネルギーの二つの側面でしかないのです。
アインシュタインの公式 E=mc2。すべてはエネルギーなのです。
ぱりさんの見解にしろ、私の意見にしろ、これらは私見であって、オーラソー
マの公式見解というものではありませんので、念のため。
では、ぱりさんのオーラソーマ、お楽しみください。
尚 記
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ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者的な立場か
ら眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、案外、面白
がっていただけるかもしれません。
前回、当初のHPの各イクイリブリアムボトルの説明ページでは、現在
・「1本目に選ばれたときの性格的側面:」
・「2本目に選ばれたときに、チャレンジとなる性格的側面:」
と表示されているタイトルは、
・「性格の肯定的側面:」
・「課題となる性格の側面:」
という表現になっていた、ということをお話ししていたんですね。
それはひとりの人間の性格特徴と考えれば、あまりにも極端に対極的でした。
しかしまた、各ボトルに関するこの「肯定的側面」と「課題的側面」の描写に
は、なぜか現実の人間にもありそうな矛盾の雰囲気も感じました。
正反対といえるほどに対極的なのに、どこか人間くさい。
この人格的な統合性はどこからくるのか……? (-_-;)
というところで終わったんでしたね。
で、その「肯定的側面」と「課題的側面」の“人間くささ”ですが、結局、そ
れはある同一の心理傾向にまつわる対極だからだと思うんです。
それは正反対というよりは、むしろ、ある種の観点、あるフォーカスに関する
“裏表”とでも言ったらいいでしょうか。
たとえば、天に憧れて、いつも天上の平安のみを求めて上を向いている人が、
じっさいには足許にある穴にはまって転けてしまったり、普段の地上の生活で
は恐くて何ひとつ手を出せない、とか。(^_-)
あるいは、地上での豊かで着実な生涯を求めていた人が、じっさいには、自分
が求める贅沢と自分のじっさいの無能とのギャップで苦しむとか。(^_-)
あるいは、圧倒的な愛と情熱とパワーと魅力を願った人が、じっさいには力の
誤用や無責任の結果に苦しむとか。
もしかすると、熟練したティーチャーの方なら、上のコメントを聞いただけで、
それがどのボトルを描写したコメントかがわかるかもしれませんね。^^;
ある意味で、各ボトルの「肯定的側面」と「課題的側面」には、固有の人格を
想像させるような“人間くささ”が感じられて当然なのかもしれません。
各ボトルの「肯定的側面」と「課題的側面」は、
けっして偶発的で“気まぐれ”な組み合わせでないようです。
個々の組み合わせは、いわば必然的で不可避的な印象を与えます。
あれほど極端に正反対なのに、一方では、なぜそういう印象になるのか?
いろいろ全体を眺めてみると、ははーん、と見当がついてきます。
どうやらそれは、何か特定の“能力”や“天賦”を願うことによって発生した
人格的“ひずみ”、“偏向”、つまりは「肯定的側面」と「課題的側面」にす
ぎないようなんですね。(^_-)
見当がついてみれば、そんな当たり前のこと……とも思われます。^^;
以前のボトル説明で「肯定的側面」と「課題的側面」と述べられていたのは、
全体の中のある側面、要するに、ある「ギフト」を願ったそのことによって、
結果的に現れた二つの側面のようなのです。
よく「長所」と「短所」というのは同じものだ、と聞くことがあります。
たしかに、ある方向に突出した能力をもっている人格には、その裏側に大きな
欠落部分があって当然なのかもしれません。
それはひとつの資質を、たんに視点を変えて描写しているにすぎないとも言え
るわけですから。
あまりにも崇高な天上の美に憧れるようなタイプの方は、一方では、この世の
汚さには耐えられないでしょうし、たとえ口には出さなくても、人の醜さには
きわめて峻厳かもしれません。
非常に現世に着地した着実な聡明さを発揮できる方は、一方では、ときに状況
に過激な反応を示したり、非常に大きな問題を隠し持っていたりするかもしれ
ません。
そんないろいろのイクイリブリアムボトルの「肯定的側面」と「課題的側面」
を叙述する対極的描写のペアを眺めているうちに……。
あるとき、ふと、この両側面の描写の背後から、一対の「タイトル」が浮上し
てくるような気がしました。^^;
それは……、
・「天使の願い」
・「人間の経験」
というタイトルでした。(*^_^*)
天使は、その“無経験”と“善意”のすべてを賭けて壮大な夢を描きます。
たとえば、グリーン/グリーンの願いはこんなふうだったかもしれません。
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天使の願い:
支配することなく人々を導き、誰にも成長できるスペースを与えてやりたい。
ハートを捧げて、全人類が抱える問題に配慮できる人間になろう。
事態を明瞭に認識して、実際に行動に移せる人でありたいものだ。
喪失の体験の中でさえ、何かを学べる人だ。
人には良い聞き手となり、自分では着実にワークを進めよう。
正直で、真の意味で自立し、自らの運命に調和していこう。
つねに創造性に満ちたアイディアを実現し、自然と深いつながりを保とう。
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……と。(-_-)
ところがいったんこの物理次元に誕生してみると、この地上では万事なかなか
思うようには運びません。
天使として思い描いた壮大な夢は、惨めな「人間の経験」に変わります。
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人間の経験:
ついつい過去や未来にこだわってしまう。
知的には間違っていないはず。
どうも地球とは馬が合わない。
スペースが欲しい、気晴らしの余裕なんて。
これでは将来の見通しが立たない。
いつの間にか自然や人生のリズムから離れてしまった。
これ以上どう霊的に進歩しろって言うんだ。
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と……。
いえ、これは、皮肉でもギャグでもないつもりです。^^;
真実というのはじつに身近で、しかも逆説に満ちたもののようですから。
いろいろなボトルの
・「性格の肯定的側面:」
の叙述を読むと、もしかして自分はこのタイプなんじゃないか (@_@)、なんて
妄想を膨らませたりします。(*^_^*)
ところが、その同じボトルの
・「課題となる性格の側面:」
を読むと、いやいや飛んでもない (>_<)、自分はこれほどひどくない、とその
ボトルに背を向けます。(^_-)
そんなことを何度もやっているうちに、だんだん、なにやら少し様子が見えて
来たような気にもなります。
そうか……何を選んでも、どんなことを願っても……、そうか……と。(-_-;)
だって、「性格の肯定的側面」にどんなに素晴らしいことが書いてあったって、
そのボトルにもちゃんと「課題となる性格の側面」があることが、わかってき
ますから……。
そのことに関して、じつに、例外がない。
それだけとっても、「オーラソーマ」はじつに素晴らしい“洞察のツール”な
のかもしれません。
しかし、個々のイクイリブリアムボトルがそのような“生きた人格”を持って
いるというのも……、それもまたひとつの比喩にすぎません。
花の香りや色が密蜂を呼ぶように、それぞれのイクイリブリアム・ボトルが、
「色の言語」で人を惹きつけるとき……。
それは、鉱物界と植物界から選出された代表たちが、「ギフト」を願い「チャ
レンジ」に傷ついた“天使”たちを、癒すためなのかもしれません。
「オーラソーマ」にはホメオパシー(同種療法)的な原理が働いていると聞き
ます。
鉱物界と植物界の代表選手たちは、「色の言語」という宇宙の普遍言語を使っ
て、わたしたち人間の内部に眠る意識の何かをヒットし惹きつけます。
そのとき、引き寄せるものと、引き寄せられる者のあいだに介在するのが色と
いう共通の要素、つまり「同種」なのでしょう。
ホメオパシー(同種療法)とは、
「ある症状を持つ患者に、もし健康な人間に与えたら、その症状と似た症状を
起こす物質をきわめて薄くしてわずかに与える」ことによって、症状を軽減し
たり治したりしようとする療法(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
のことだそうです。
言ってみれば、植物界と鉱物界の仲間たちが、動物界の仲間の“同病を憐れ”
んでくれたのかもしれません。(^^;)
ある特定の色にまつわる不調和のゆえに苦しんでいる動物界の有機体を、それ
と同種の色にまつわる植物界や鉱物界の存在たちが引き寄せるとき、そこにあ
るバランスの回復が起こり、癒しが起こるのでしょうか。
ちょうど、植物が吐き出す息が動物が吸い込む息となり、動物が吐き出す息が
植物の吸気となるように、引かれ合うものの間に癒しが起こるのかもしれませ
ん。
動物も植物も鉱物も、色という普遍言語で会話をしながら、互いに<ひとつ>
である全体に発生した不調和を癒し合うのかもしれません。
……。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定された見解とい
うわけではありませんが。
今回は、イクイリブリアムボトルの“人格的”描写の不思議さに触発された、
まったく自由な立場からの連想でした。
お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
…………○…………○…………○…………