第549w号 【パリさん】:映画の登場人物と観客
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:映画の登場人物と観客 (2015,1/7)
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あけましておめでとうございます
早くも1週間が経ちましたね。
年初はいかがお過ごしでしたでしょうか。
今年の水曜メルマガは、これさえ知ればオーラソーマのすべてを読
み解くことができるという、ぱりさんのカラーローズからの幕開け
です。
カラーローズというのは、オーラソーマのボトルの色の鍵を12色
の色の輪で表した図のことをいいますが、これにクリヤーとピンク
を加え、14色でオーラソーマのすべての色が説明できるというす
ぐれものです。
http://aura-soma.co.jp/newsletter/backnumber/index_3.html
イクイリブリアムボトルは、今では113本のボトルがあるのです
が、この14色のことを知っていれば、オーラソーマのボトルのメ
ッセージが読み解くことができます。
とはいえ、ぱりさんのカラーローズの解説は、実はオーラソーマの
カラーローズ解説とはちょっと異なっているのですが、このように
自分でカラーローズを読み解くことができれば、オーラソーマを学
ばなくても、カラーローズを見ることで、自分でオーラソーマを読
み解いていくことができるようになります。
それは知識を得ようとするのではなく、自分で考えて、感じること
によってです。
考えることも、感じることも、すでに誰もが持っているものです。
必要なのは、自分のユニークな考えや感じ方を信頼することです。
オーラソーマは、内なるガイドを信頼することを教えるためのツー
ルです。
そのためのヒントを提供しています。
オーラソーマを感じる練習としては、オーラソーマのボトルを使っ
た「内なる色を見いだす瞑想」や、ポマンダーを使ったチャクラの
瞑想などがとても役に立ちます。
http://artbeing.com/cd_book/aurasoma3/SACD190.html
ぱりさんのカラーローズでは、カラーローズを使った考え方のヒン
トを学んでみてください。
それでは、【ぱりさんのオーラソーマ】:映画の登場人物と観客
をお楽しみください。
尚 記
………○…………○…………○………
ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。
「カラーローズ」は人間のあらゆる願い(意図・欲望)を一目瞭然
に展開した欲望のマップとも言えるでしょう。
“二元性の原理”の支配下にある現象世界では、どんな欲望も単独
では存在できません。
また個々の欲望は、その対極の欲望との対として存在していますが、
その両極の欲望が同時に存在することもできないのです。
なぜなら、対極の欲望同士が同時に存在すると、それは互いに相殺
しあって、現象することができないからです。
たとえば、同じ波長、同じ振幅で、ただ高さだけが完全に逆転して
いる二つの音を、同時に聞くことができないようなものです。
「カラーローズ」の場合で言うと、補色関係にある対極の色相光線
を同時に照射すると、白色光になるのがそれに当たります。
補色関係にある対極の二色では、互いの色相の偏りが相殺しあって、
色相としての“偏り”をもてなくなるからです。
また、見てわかるとおり、「カラーローズ」は対極の二色を360度の
パノラマとして展開した図です。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/
もし補色位置にある個々の二色が相殺しあうのなら、すべての色相
を加法混色したら、白色光になってしまうのではないか?
これは、容易に推測されることですよね。
そうなんです、色彩世界は、すべての色を同時に照射して加法混色
すると、白色光となって消えてしまう世界なのです。(*^_^*)
これはなかなか意味深な事実を明かしていると思いませんか?
つまり、それぞれの色、それぞれの欲望は、そのとき単独で照射さ
れ、輝くことによってしか現象(識別)できないということです。
何かを表現することは、他の何かを表現しないことによってしか可
能ではありません。
すべての可能性を同時にすべて顕現させることはできません。
すべてがすべてを打ち消し合って、何も表現されないからです。
色相としての固有の“偏り”だけが固有の色を表現できるのです。
オーラソーマの代表的製品である「イクイリブリアム」ボトルは、
“魂の窓”とか“意識の鏡”と言われます。
自分の内なる願いを映しだし、その魂の旅をサポートするツールと
して、この時点の地球人類に降ろされたと言われます。
それで、これまでは「カラーローズ」という人間心理の索引を、あ
る程度安定的な心理を位置づける空間として描写してきました。
DNAに刻印され、魂の遍歴として記録されるような、比較的固定的
な心理傾向を位置づける空間として描いてきたわけです。
イクイリブリアムボトルの下層を過去を反映する潜在能力、上層を
今回の生涯の学びの領域の象徴、と見なすような具合にです。
でもそうすると、一人の人間が一生で住む心理領域は、「カラーロ
ーズ」のなかのごく一隅に限られてしまうことになります。
でも、体験的には、実際はそんなことはありません。
ある人がある瞬間にピンクになったり、別の瞬間にブルーになった
りするのはよくあることです。
そうです、その瞬間瞬間の、気分のことです。
たとえば、ハムレットは人生を悩む青年哲学者かもしれませんが、
ときには陽気な気分でオフェリアをからかうかもしれません。
逆に陽気で、生きる歓びに輝くようなイエローの人でも、ときには
生きていたくないヴァイオレット気分になるかもしれません。
そういう時々の気分は、「カラーローズ」の一隅に留まることなく、
全体を点滅する光点のように移動するかもしれませんね。
そんな気分の変化の意味合いも含めて、「カラーローズ」を眺めて
みることにしましょう。
そんな気分の変化を、「カラーローズ」上で表現したら、とっても
美しいかもしれませんね。
その様子をコンピュータグラフィックで表現したければ、「カラー
ローズ」を埋め尽くす大量の発光素子が必要になるでしょう。
膨大な数のLED光源で「カラーローズ」を作って、誰かの気分をそ
こで点滅させたら、美しいアートになるかもしれません。
ところでその点滅する光点の移動は、リンク上で華麗に演技するフ
ィギャースケーターのような実体の存在を意味するでしょうか?
いやー、それはないですよね。(^^;)
その光点の【移動】は、単に「カラーローズ」を埋め尽くした大量
の発光素子の点滅が生みだす、錯覚にすぎませんものね。
そんなの楽勝で、誰だってすぐにわかります。
ところがですね、ここにちょっと、厄介なことがあります。
それは、「ブルー」は「ブルー」を識別できないという原理です。
もちろん「ブルー」には限りません。
砂糖は砂糖の甘味を知覚できない、寒さは寒さを感じることができ
ないなどと、いろいろに言い換えることができます。
一般化すると、表現要素は識別要素にはなりえない、となります。
もうちょっと言うと、顕現は顕現を識別できない、です。^^;;
このことは、以前にもちょっと書いたことがあります。
【ぱりさんのオーラソーマ】:誰が知るのか?(2012,1/23)
http://www.aura-soma.co.jp/newsletter/backnumber/dtl_1338.html
駄洒落みたいにも聞こえますが、ただこれ、事実です。
われわれはブルーの気分になったとき、そのブルーの気分が自分な
のだと思います。
でもじつは、ブルーの気分に気づくことは、ブルーの気分にはでき
ないことなのです。
つまり、ブルーな気分に気づいている存在は、ブルーな気分自体で
はありえないということです。
人間は多様な刺激に突き動かされて、多様な気分を経験しますが、
その気分に気づいている存在は、その気分ではありません。
LED光源で表現された、「カラーローズ」上を点滅移動する光点は、
そこで移動している個人の存在を意味しませんでした。
それはただ、それぞれ別の位置にある別の色相のLED光源が、点い
たり消えたりしただけです。
けっして、その色々な色彩に変化している同一人物がいるわけでは
ありませんでした。
美しくLED光源で作られた「カラーローズ」で、その時々の光源に
通電して発光させているのは、もちろん電気エネルギーです。
じつは、もしかしたら、そのまったく同じことが、様々な気分を感
じる人間についても言えるかもしれません。
われわれが感じる多様な気分は、われわれ自身ではなくて、意識の
光を照射されて一瞬輝いた多様な気分のほうかもしれません。
ちょっと禅問答みたいですが、じつはこれこそが「カラーローズ」
に秘められている最大の神秘です。(^^;)
「カラーローズ」は“人間心理”が織りなすドラマの舞台裏をすべ
て、その構造までも含めて暴露しています。
公然の秘密として。
いちばん秘匿したいものは、いちばん人目につくところに公然と置
いておくに限るんですよね。
そうすると、みんな安心して、誰も見ないからです。(*^_^*)
人間はドラマが好きです。
不幸になったり、幸福になったり、山あり谷ありが大好きです。
物語中毒なんです。
ところが、物語を紡ぐには“立場”が必要です。
どの視点に立ってその現象を解釈するか、それががなければ、物語
を生みだせないからです。
TVドラマや映画で言うと、それが主人公(ヒーロー、ヒロイン)
の役割です。
主人公とは、観客がそのドラマを解釈する視点のことなのです。
映画のなかで投影されるさまざまな画像が、主人公というある視点
を基準にすることで、ひとつの物語として立ち上がるのです。
これは映画では、誰もが知っている暗黙の約束事です。
また観客の誰もが知っているのは、映画のなかの主人公の映像自体
はどんな気分も感じていないし、映画を見てもいないことです。
映画の真の観賞者は、もちろん、主人公の映像ではなく、主人公の
視点に喜んで自己同化している観客のあなたです。
こんなことは、大人なら誰でも知っていますよね。
何をいまさら当たり前のことを、と叱られそうです。
でもじつは、この事実は、物語を構成するためのある根本的秘密を
指し示しています。
それは、物語のなかで立場を担う表現者(映画の登場人物の映像)
は、観賞者(あなた)ではありえないという事実です。
物語の成立には、物語の文脈と、その文脈のなかでの立場、つまり
解釈のための視点が必要です。
このどちらを欠いても、物語は成立しません。
そして……、ここが肝心なのですが。(*^_^*)
この物語の背景となる文脈と、その文脈のなかでの立場(視点)は、
ともに現象世界内部の事象なのです。
だから映画では、文脈を表現する背景の映像も、解釈視点を表現す
る主人公の映像も、ともに映画のなかに投影できるのです。
何を言っているのか、ピンときませんか? (^_-)
つまり、その映画のなかで流れる物語を【観ているひと】は、映画
のなかには映っていないということです。
それは、映画には映らないものなのです。^^;
なぜか?
なぜなら、そのひとはとっても控え目で、絶対に知覚対象にはなら
ないひとだからです。(^_-)
だから映画という娯楽の場合は、スクリーン上に投影される文脈と
主人公の映像の外に、物語を味わう観客が別に存在するのです。
なるほど。
映画の場合は、物語のコンテキストも、物語を解釈する視点も、そ
の両方がスクリーン上に映写されているんですね。
そして、映画のなかの登場人物の映像は映画の鑑賞者じゃなくて、
われわれ観客がそのドラマを鑑賞すると……。
じゃ、われわれが通常、人生と言っているこのドラマの場合は、ど
ういうことになるんでしょう?
人生のコンテキスト(世界)も、人生を解釈する視点(自分)も、
両方とも現象していて、そして自分がそれを観ている。
え。(?_?)
じゃ、人生ドラマの場合は、解釈視点を表現する自分と、観賞者の
自分を、両方とも自分がひとりで兼ねているということだ。
そういうことですよね。
じゃ、「ブルー」は「ブルー」を識別できないという原理は、映画
では通用しても、現実世界では通用しないということかな?
「ブルー」な気分を表現している自分と、「ブルー」な気分を味わ
っている自分が、両方とも現れているけど……。
え、違います? (?_?)
いったい、誰が観賞者なんでしょうね? (^^;)
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこ
へ行くのか』(
http://p.tl/0WWA )。(-_-)
実際、この旅はどこへ向かっているのでしょうね。^^;;
次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。
「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
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