第716号 【パリさん】:「両端を見る」という技法
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:「両端を見る」という技法 (2017,2/8 水)
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ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでおつきあいいただければ、
案外、おもしろがっていただけるかもしれません。
「カラーローズ」は人間心理のパノラマです。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/
でも、ここでいう人間心理とは、人間が結果として味わう悲喜こも
ごもの多様な人間心理のことではなかったのでしたね。
「カラーローズ」のどこにも、嬉しい、悲しい、誇らしい、恥ずか
しい、といった具体的な感情に相当する位置はありません。
そのような具体的な感情はすべて、結果として成立した現象世界の
ドラマを生きる体験のなかで生まれる感情です。
「カラーローズ」に展開されているのは、そのような体験世界を願
った【意図(欲望・願い)】の元型だったのです。
あなたは、体験というのはあって当然のものだと思いますか?
それとも日々の体験そのものを、奇跡のように貴重なものに感じて
いらっしゃるでしょうか?
身体を持って生きていてこそ、毎日の体験は可能です。
身体を維持できなくなれば、私たちはもう体験する“自分”でいる
ことはできません。
私たちが熱心に行列を作って、「地球行き体験ツアー」列車に乗り
込んだことは、どうやら間違いないかもしれませんね。(*^_^*)
ダライ・ラマ法王はこんなことをおっしゃったことがあるそうです。
今地球にいるみなさんを、この小指の先の砂粒に喩えるとすれば、
宇宙全体で地球への転生を望む魂は、地球の砂全部ほどもいます、と。
これがほんとうかどうかを確かめる術は私たちにはありません。
ただ、もしかして、これは現在がかなり特別な時期であることの、
一種の比喩的表現なのかもしれません。
ほんとうの幸せを求めて銀河鉄道に乗ったジョバンニのように、
私たちも現象世界で真実を確かめたかったのかもしれませんね。
(^^;)
それはともかく、現状として、私たちはこうして“自分の身体”を
持って、地上での日々の体験をしています。
朝、目覚めると、私たちはすぐに“自分”が誰かを思いだし、一瞬
でその役になりきって、その物語世界に入っていきます。
そして、その物語世界でしか通用しない連想群をまとって、その
価値観のなかでさまざまの体験をします。
そのような知覚可能な体験を願った願望の原型が「カラーローズ」
に展開されていたわけです。
そして「カラーローズ」に展開されている色の志を、ここではおお
よそ次のように素描したのでした。
【カラーローズの欲望・願いの配置】
●←ブルー
独存し、安らぎたい
ロイヤルブルー→○ ・ ○←ターコイズ
真理・真実を知りたい 全智・全能でありたい
・ ・ ・
・ ・ ・
ヴァイオレット
→◎ ・ ・ ・ ◎←グリーン
脱出したい、超越したい 見晴し、受け容れたい
・ ・
・ ・ ・ ・ ・
・ ・
マジェンタ ・・・・・ オリーブグリーン
→○ ・ ・ ・ ・ ・ ○ ・ ・ ・ ・ ・ ○←
無条件でありたい ・・・・・ 調和したい
・ ・
・ ・ ・ ・ ・
・ ・
レッド→● ・ ・ ・ ●←イエロー
自己を貫徹したい 知りたい、体験したい
・ ・ ・
・ ・ ・
コーラル→○ ○←ゴールド
育みたい、守りたい ・ 豊かで、自立したい
◎←オレンジ
帰属し、奉仕したい
このような欲望・願いが織りだす世界に、どんな真理が発見される
んでしょうね?
ところで話は突然変わりますが、インドの神秘家Oshoが薦める瞑想
法に、「両端を見る」という技法があります。
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思考(マインド)は一つの極しか見ることができない。
だが真実は二つの極、同時に二つの対極を含んでいる。
思考は一つの極端しか見ることができない。
その一つの極端にはもう一方が隠れている。
だが思考はそれを見ぬくことができない。
そして、両極を同時に見ないかぎり、
けっして事のありようを見ることはできない。
何を見てもそれは偽りになる。
それは半分になるからだ。
覚えておくといい。
真理とは全体でしかありえない。
もしそれが半分なら、それは嘘よりもっと危険だ。
というのは半面の真理には、
真理ではないのに、
真理であるかのような感じがあるからだ。
人はそれに騙される。
真理を知るとは、
あらゆることにおいて、その全体を知ることなのだ。
『信心銘』(p338)
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なるほど。(-_-;)
真理を知るということは、全体を知ることなんですね。
どうやら、この同時に「二つの対極を見る」というのは、とても
強力な観点みたいですね。
ほんとうにそれを望むなら、もしかしたら、向いている人には人生
というものが、単なる観念にすぎないことがわかってしまうかも。
でも、そのつもりもないのに、そういうことがわかってしまうと
いうことはないから、安心して大丈夫ですよ。(^^)/
そのへんは、マインドの防御もまたとても強力です。
ちょっとやそっとで、その防御が破られることはありませんから。
で、この「両端を見る」という技法について触れたのは、この技法
を「カラーローズ」に適用するとどうなるかを、ちょっと試して
みたいと思ったからです。
ただ、ここでちょっと最初にお断りしておきたいのは、Oshoが触れ
た「両端を見る」というこの技法は、人生で起こるあらゆる体験に
関してだということです。
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ある人を愛するとする。
あなたはけっして、
その愛の中に憎しみが隠れていることを見ない。
が、それはそこにある。
好むと好まないとにかかわらず、そこにある。
いつであれ、愛すれば、
そこにはその対極の憎しみがある。
なぜなら、愛は憎しみがなくては存在できないからだ。
それは好みの問題ではない。
それはそうなのだ。
愛は、憎しみなしには存在できない。
相手を愛しているとき、
あなたはその同じ人を憎んでいる。
だが、思考にはその一方しか見えない。
思考が愛を見ているときは、
憎しみを見ることをやめてしまう。
憎しみが表面に出てきて、
思考がその憎しみに執着しているときには、
愛を見ることをやめてしまうのだ。
だから、もし思考を超えたいと思うなら、
あなたはその両方をいっしょに見なければならない。
その両端を、両方の極を。
『信心銘』(p338)
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こんな具合です。(*^_^*)
私たちが住んでいる知覚可能な現象世界が、波動現象として実現さ
れていることは、現在人類が到達している科学的知見では明らから
しいです。
つまり、両端のある振幅間の波動現象なしには、知覚可能な現象世界
というのはありえないらしいのです。
つまり、生命現象というのは一種の振り子のような、周期的な現象
らしいのです。
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それはちょうど時計の振り子のようなものだ。
振り子が右に振っている。
目に見えるすべては、
振り子が右に動いているということだけだ。
だがそこには目に見えないものもある。
それは、振り子が右に動いている間、
左へ振るべき勢いを集めているということだ。
それははっきり目に見えることではない。
だが、じきにそれを見ることになる。
ひとたびその端まで来れば、
振り子は反対の端に向って動きはじめる。
左へ振りはじめる。
そして、右へ振ったときとちょうど同じだけ、
左の端にまで振り進む。
左へ振っているあいだ、
人はまた騙されるかもしれない。
それが左へ向って動いているのが、
見えることになる。
だが目に見えない内側では、
振り子は、すでに右へ振るエネルギーを集めているのだ。
『信心銘』(p338)
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そうなんですねぇ。(-_-;)
でも、これが単なる言葉ではなくて、実際にほんとうなのだとわか
ってしまったら、風景は変わってくるかもしれませんね。
ただですね、
ふつうの日常生活での体験では、私たちは習慣的に自分に都合のい
い側面だけを見ようとするので、この「両端を見る」ことはまず
起こりません。
そのため「両端を見る」ことで明瞭になる矛盾もまた、ふつうは
まず見えないわけです。
そして、あらためて「両端を見る」ことで矛盾を見つけようとなど
は、よほどの物好きでもなければ誰もしないでしょうね。(^^;)
それよりは、
物語の登場人物に完全に自己同化して、一瞬一瞬の体験に夢中にな
ってワクワクドキドキしているほうがずっと楽しいですから。
私たちがドラマ好きなのはそのためです。
でも、人生がワクワクドキドキ楽しめるだけのものなら、誰も苦し
んだりはしませんよね。
ところが、これが一度ハマってしまうと、外に出られなくなるほど
の強烈な中毒性があることもわかっています。
もう、こんな世界に生きていたくないと思いながら、人生を生きて
いる人たちもたくさんいるのです。
人生を受け容れて楽しめるならいいですが、呑み込まれて溺れるだ
けではつらいですよね。
だって、これはただのゲーム、ドラマなんですから。
だから、望めばいつでも、これがただのドラマであることを思いだ
せるのも悪くないかもしれません。(^^;)
私たちは日常的体験のなかで、自分が嬉しいときにはその嬉しさに
焦点を当てています。
そして、その嬉しさが同等の悲しさによって均衡されていることを
意識したりはしません。
当たり前ですよね。
そんなことをしたら、ふつうの意味での人生を生きられなくなって
しまいます。(*^_^*)
だから日常生活の体験のなかで「両端を見る」ことは、とてもむず
かしいのです。
それでですね、この「両端を見る」という技法を、「カラーローズ」
そのものに当てはめるとどうなると思いますか?
あらゆる知覚可能な体験を呼びだした欲望のパノラマに、直接この
「両端を見る」という技法を当てはめてみるのです。
「カラーローズ」に展開されているのは、普遍的で一般的な人間の
「願い・欲望」のパノラマです。
だから「両端を見る」と言っても、単に論理的なことで、何も自分
の感情などは巻き込まれないはずです。
だったら、簡単ですよね。
単なる知的なお遊びですから。(*^_^*)
そして、もしかしたらふつうは見えない欲望そのものの矛盾が見え
てくるかもしれませんよ。
それはそれで、なかなかおもしろいかも。
今回は長くなりすぎたので、こんど機会があったら、「カラーローズ」
で「両端を見る」という試みをやってみましょうか。
ほんとうに、この「カラーローズ」で展開される“人間心理”の
世界って、いったいどこに向かっているんでしょうね。
(*^_^*)
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこ
へ行くのか』(
http://p.tl/0WWA )。(-_-)
次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。
「オーラソーマ」が、ゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
というすばらしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。
おつきあいいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
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