第239号 【パリさん】:時代背景能力と包容力(1)
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:時代背景——能力と包容力(1)
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ぱりさんのオーラソーマ、今週は、時代背景——能力と包容力(1)
どこに落としどころがあるかは次回のお楽しみ。つまり、今回読んだだけでは、
オーラソーマとどうつながるか分からないかもしれません。。。
でも、『カラーオブヒストリー』と同じく、その時代、歴史を考察するという
のは、この時代、この日本んにおけるオーラソーマの意義、ということを考え
るにあたって、とても大切なことと思われます。
そういう自分の問題意識を持って、自分で何かを考えるきっかけとして読んで
いただくと、興味を持って読んでいただけるのではないかと思います。
>だとすれば、その時代的背景というか、「オーラソーマ」が今の時代に降ろ
>されたその時代的必然というようなことについて、ちょっと勝手な連想を働
>かせてみるのも一興かもしれません。
とぱりさんは書いています。
どうしてオーラソーマシステムが、ヴィッキーさんを通して、今の時代に、こ
の世に降ろされたのでしょうか?
ということですね。
そして、それが今なぜ日本にあるのだろうか? ということについて考えてみ
るのは面白いでしょうね。
ぱりさんと一緒に考えてみてくださいね。
私の今の関心事は、オーラソーマシステムというのは、日本においてどういう
ポジション、役割があるのだろう? ということです。
オーラソーマシステムは香りを含むもので、エッセンシャルオイルも含みます
が、それだけではありません。
オーラソーマシステムは、クリスタルエネルギーを含みますが、それだけでは
ありません。
オーラソーマシステムはカラーヒーリングを含みますが、カラーセラピーだけ
ではありません。
では、オーラソーマシステムとは、なんでしょう?
そもそも、このメルマガだって、実は登録する「カテゴリー」がないんですよ。
一時期、癒しのカテゴリーができて、そこに登録してもらったことがあります
が、またそのカテゴリーがなくなってしまったんですね。
そういう意味で、オーラソーマシステムは、新しい時代の変革のためにこの地
上に降ろされたのですが、まだそのカテゴリーがない新しい分野でもあるんで
すね。
では、ぱりさんのオーラソーマ、楽しんでください。
尚 記
…………○…………○…………○…………
ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者的な立場か
ら眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、案外、面白
がっていただけるかもしれません。
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”に見立て
て、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。
素人の恐いもの知らずで、ずいぶん勝手な連想を書かせていただいてます。(^
^;)
少し「色の心理」が続いたので、別の話題で気分を変えましょうか。
思うに、ヴィッキーさんがこの時代に合わせて準備され、新しい段階に向かう
人類のために、そのヴィッキーさんを通じて地上に「オーラソーマ」の智慧が
降ろされたこと……。
これは、まず疑いのないことではないしょうか。
おそらく、このメルマガの読者の多くの方が、そのことを疑ってはいらっしゃ
らないだろうと思います。
だとすれば、その時代的背景というか、「オーラソーマ」が今の時代に降ろさ
れたその時代的必然というようなことについて、ちょっと勝手な連想を働かせ
てみるのも一興かもしれません。
だいたい、こういうことは「オーラソーマ」について責任ある立場の方には、
ちょっと言及しにくいことですよね。(^_-)
その意味では、わたしくらいの外野がちょうどいいかもしれません。(^^;)
●時代の加速とフロンティアの消失
明治の文豪夏目漱石の作品に『行人』という小説があります。
その主人公の一郎は、いわば“進歩史観”を中核にもつ西洋文明に初めて触れ
た、明治の日本知識人の危機を象徴する人物として描かれています。
この主人公がもつ強迫神経症というのが、“時間の加速”の妄想なんです。
産業革命後の西洋機械文明が、その象徴である蒸気機関車のような轟音を立て
て、人間を急き立てている妄想に苦しむわけです。
夏目漱石といえば、最初に全身で西欧文明と遭遇した明治の知識人の代表のよ
うな方でしょうから、もしかしたら彼が直感したものにはわれわれが想像する
以上の深い意味があったのかもしれませんね。
とは言え、良かれ悪しかれ、明治の日本は開国しなければなりませんでしたし、
地球の東と西は出会わざるをえませんでした。
時代の趨勢として、地球はひとつに成らざるをえなかったでしょうから。
かくて、西洋の直線的進歩史観と東洋の円環的時間は出会うことになりました。
そして、いまやその産業革命をはるかに凌駕して時間を加速させる、情報革命
の時代に突入しているわけです。
情報革命が可能にした通信技術の発達によって、いまや地球は人里離れた辺境
すら存在しない“ひとつの村”の様相を呈してきました。
そうすると、どういうことが起こるか? (^_-)
ちょっと想像してみるのも面白いですよね。
もしかしたら、地球が“ひとつの村”であったと知るまでに必要だった知恵と、
“ひとつの村”であることがわかってしまった世界で必要な智慧とは、すこし
違うかもしれないとは想像できませんか? ^^;
大航海時代の英雄コロンブスが“発見”した大陸を、当時の西洋世界はあたか
も地図の上に新たな大陸が誕生したかのように「新大陸」と呼びました。
しかし実際には、その一万年以上も前から、アメリカ大陸には立派に地域住民
が居住していたのです。
そのときの、その「新大陸」の“征服者”たちの知恵がどのようなものであっ
たかを、想像してみてください。
そして、この“征服者”という言葉の、(誇らしかったであろう)旧来の意味
と、(血塗れの)現在のニュアンスの違いを。
やがて、かくも広大であった「新大陸」も、その“征服者”たちの子孫によっ
て“征服”され尽くすときが来ます。
いまからおよそ120年前の、いわゆる「フロンティアの消滅」です。
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アメリカの言う「フロンティア」とは実際には「アメリカ先住民の掃討の最
前線」であり、スー族に対する「ウンデット・ニーの虐殺」があった1890年
に「アメリカ先住民の掃討が完了した」としてアメリカ政府は「フロンティ
アの消滅」を宣言した。(ウィキペディア(
http://tinyurl.com/8j2rg8))
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……。(;_;)
アメリカ人はまだその“フロンティア”の喪失に耐えられず、現在は「パキス
タンが自由主義のフロンティア」だと言っているそうです。
とすると、この“フロンティア”という言葉の具体的な意味は何なのか? (-_-)
これは……もしかして、“人に見られないで好きなことができる場所”という
意味ではないのか? (^_-)
日本にも、「旅の恥はかきすて」という諺があります。
“ふだんは謹厳な人も旅に出るとついハメを外す”という意味ですよね。
要するに、自分の居住空間、つまり身近な世間に“知られずに勝手なことがで
きる場所”こそが、“フロンティア”ではないでしょうか。
わたしは、沖縄の駐留米軍兵士の婦女暴行事件などに対する最善の防御策は、
兵士の両親が住む地域の新聞・テレビなどマス媒体に、兵士の犯罪についての
報道を義務づけると、日米地位協定に明文化することではないかと夢想したこ
とがあります。^^;;
ちょっと、脱線しました。(*^_^*)
●獲得した“知的腕力”に見合う“包容力”はどこに?
上で、通信技術の発達によって、いまや地球は人里離れた辺境すら存在しない
“ひとつの村”になりつつある、ということを言いました。
つまり、いまやこの地球上に“人に見られないで好きなことができる場所”は
なくなりつつあるということです。
もちろん、いま現在はまだ残っているわけですが。
どうしてこういうことが起こっているのか?
そしてこの事態はどこまで進むのか?
あるいはむしろ、どうしてこういう事態が“醸成”され“準備”されてきたの
だろうか、と尋ねることもできるかもしれません。
とりあえず、どうしてこういうことが起こったか?に関しては、表面的な事象
の流れを追うことは簡単です。
もちろん、「コンピュータ」の発明によって「インターネット」が生まれ、そ
のインフラの上で可能になった“情報革命”によって、地上の個々人が知りう
る情報の範囲が幾何級数的に拡大しつつあるからでしょう。
その「インターネット」が、アメリカ国防総省の国防高等研究計画局の指揮の
もとに生まれたと聞けば、歴史の皮肉というか必然を思わざるをえません。
「オリンピック」の謳い文句ふうに言うなら、「コンピュータ」も「インター
ネット」も、サバイバルに必要な“情報という武器”を、“より速く、より強
く、よりエレガントに”調達する道具として発明されたのです。
また「コンピュータ」と「インターネット」が可能にした処理速度と通信速度
を前提にして、高度にソフィストケイトされた金融商品が発明されました。
それはいわば、地上の既得権益者たちの強欲を達成する手段として発明された
はずでした。
しかし、それは“発明者”の予想をはるかに超えて、新しい時代を呼び寄せよ
うとしているようです。
あまりにも“洗練”された金融商品は、地上の経済から、従来の“経済活動”
に固有だった“堅固さ”のようなものを奪ってしまいました。
地上の経済は、いわば“夢”のような柔らかなもの、“経済的”と言うよりは
むしろ“心理的”とでも言うべきものに変容しつつあるようです。
これまでの地球世界では、“サバイバル”こそが「現実」でした。
その意味では、地球世界では「経済」こそが「現実」だったわけです。
だからこそ、その“経済社会”で生き延びるための強力な手段として「コンピ
ュータ」は発明されたわけです。
“より速く、よりエレガントに”、より上質の核心的情報を調達するために。
ところが近年、情報通信量の爆発的拡大とともに時間が加速していくなかで、
その「経済」が、妙に“心理的”なものに変容しつつあるようなのです。
このような加速度的な変容の世界のなかでは、もはや“急ぐ”こと自体、かな
らずしも役に立つようには思われません。
急いだからと言って、それが本当に役に立つとは、急いでいる本人にとってす
ら思えなくなってきている。
この加速度的変容のなかでさらなる“速度”を求めたのでは、『行人』の一郎
でなくても、正気を保ってはいられなくなりそうです。
必要なのは“速度”ではなく、むしろ“方向感覚”とか“全体への視野”、つ
まりは“落ち着く先”や“落としどころ”がわかっている大局観なのかもしれ
ません。
必要なのは男性的“腕力”ではなく、むしろ女性的“包容力”なのかもしれま
せん。
いや、あまりにも地球人類が獲得した“知的腕力”が大きいため、それに見合
うだけの大きな“包容力”が必要になっているのではないか。
「コンピュータ」が、新しい時代を用意した人類の“知的腕力”であることは
間違いないでしょう。
だとすれば、その「コンピュータ」の発明に見合うほどのエポックメイキング
な“包容力”の器が用意されているのではないか? (^_-)
人類がこれほどの“アビリティ”を手にしている以上、それに見合う“キャパ
シティ”がないというのは不自然ではないか?
このメルマガの読者の方なら、それがどこに用意されているかはもう見当がつ
いていると思います。(^^;)
ちょっと長くなったので、それについては次回に書きますね。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
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