第608号 【パリさん】:「私は気づいている」
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:「私は気づいている」 (2016,1/27 水)
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今回のぱりさんのオーラソーマは、気づきについて。
ある意味、気づいている「意識」について、といってもいいかもし
れません。
とても深遠なるお話です。
「人」という漢字は、お互いが支えあっている姿を現している、と
いうふうに聞いたことがあります。
「人間」というのも、「間」という漢字が入るのがおもしろいです
よね。
人というのは、他者との関係のなかで定義されるようになっている
のかもしれませんね。
そのことを、ぱりさんは、カラーローズを例にとって話してくれて
います。
「I AM」(アイ・アム)というボトルがあります。
http://aura-soma.co.jp/products/equi/B040.html
メインテーマは「自己覚醒と自己を知る」
まさに、気づきのボトルといえるかもしれません。
旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、ヤハウェが「私は
在るものである」(I AM that I am)と名乗ったと言われています。
神は英語を使わなかったと思いますけれども、そういうふうに訳さ
れているようです。
「我思う 故に我あり」(コギトエルゴスム)と言った、フランス
の哲学者もいます。
ぱりさんは、なにを考えたのでしょうか?
みなさんも一緒に考えてみてください。
それでは、【ぱりさんのオーラソーマ】:「私は気づいている」を、
どうぞお楽しみください。
尚 記
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ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。
「カラーローズ」は人間心理のパノラマです。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/
この図はつくづく不思議な図です。
この図は、個性と多様性というものが現れることができるための、
とても厳密な心理的元型を提供しています。
と同時に、それらの心理的元型の諸要素をすべて統合すると、互い
を相殺しあって雲散霧消してしまうことも明示しているのです。
実はこれ、とても不思議なことなのです。
なにが不思議なのか、ちょっとゆっくり状況をご説明しますね。
頭の体操だと思って、気楽にお付き合いください。
たとえば、自分って、他人がいなければ成り立ちませんよね。
ということは、自分が存在するには、他人の存在がぜひとも必要な
わけです。
自分がいて他人がいるからこそ、そこにいろいろな多様性があり、
そのなかで物語が生まれる可能性があります。
ところがですね、「カラーローズ」が示唆しているのは、こういう
ことなのです。
“自分”というのは、“他人”がいるという前提で、自分を想像し
ているときにしか、実は存在できない、ということです。
なぜなら、“自分”と諸々の“他人”がしっかり同時に存在したら、
“自分”も“他人”も雲散霧消してしまうというのです。(@_@)
これは、エライことですよね。(*@_@*)
もちろん、「カラーローズ」は、直接、自分とか他人という話をし
ているわけではありません。
「カラーローズ」が提示しているのは、個々の体験を存在させて味
わってみたいと願った、欲望が起動した波紋の一巡りです。
喩えていうなら、奥山に囲まれ鏡のように静まった湖面に、ひとつ
の石が投げ込まれたようなものです。
ひとつの石(=意志)から広がった波紋が、湖の向こう端(=宇宙
の果て)まで届いて、反響し、相殺し合ったようなものでしょうか。
古の神秘スクールでは「ブルー」は移行の色、「向こう側への扉」
の色として知られていたそうです。
超越的なるもの、いわば「神の視界」への扉と見なされていたわけ
ですね。
このシリーズでは、「ブルー」は「実は自分しかいない」ことを知
っている絶対の平安の音色だとしたのでした。
それは人間心理に翻訳すれば、「自分はいる」という存在感覚にも
喩えられるでしょうか。
そこから個々の体験を望んだ「イエロー」の意図や、物理次元の確
かさを熱望した「レッド」等々が派生したのでしたね。
オーラソーマの12の色相が誕生したのは、「現れ」に向けた一連
の波紋、一瞬の爆発のようなものでしょう。
すべての色(音色)は他のすべての色の存在を前提していて、互い
がすべてを支えあっているのです。
一つひとつの色は、それぞれの願い・意図・欲望を表しています。
言い換えるとそれは、「全体=ひとつ」からの“分離の夢”を紡ぐ
ための、個々の音色と言えるかもしれません。
「カラーローズ」に提示されているのは、あくまでも願いの諸相で
す。
それは個人を表してはいません。
でも、下層と上層にその色を配したイクイリブリアムの各コンビネ
ーションは、まるで個人みたいな特徴を持っているのでしたね。
そして、「カラーローズ」という図に明示されているのは、すべて
の願い・欲望には、その対極の願い・欲望があることでした。
「イエロー」が個人としての体験を望めば、その対極の「ヴァイオ
レット」は個人という束縛からの超越・解放を願ったのです。
「レッド」があくまでも自分を押し通す強さを熱望すれば、その対
極の「グリーン」はそれを受容できる包容力を願ったのです。
「オレンジ」が存在を輝かせる多様な創造性を願えば、その対極の
「ブルー」は超越的な独存の安らぎを願っていたのです。
「コーラル」が誕生する生命の保護を願えば、対極の「ターコイズ」
はその願いを受諾し、その意義を保証することを願うのです。
「ゴールド」が物質的世界での繁栄と安定を願えば、「ロイヤルブ
ルー」は超感覚的世界こそが真の平安であることを願うのです。
「オリーブグリーン」が意図と受容の均衡を願えば、「マジェンタ」
は二元性の解除、判断することの彼方をこそ願うのです。
諸々の対極の色彩(願い)は、統合すると相殺し合って白色光に戻
ってしまいます。
それぞれの願いのベクトルが、対極の願いを無化するからです。
そしてもちろん、「カラーローズ」のすべての色相、すべての願い
を統合しても、すべては白色光として空中に消えてしまいます。
つまり、全体として同時に共存することはできないのです。(@_@)
しかし、にもかかわらず、個々の色彩は他の諸々の色があるという
前提で、その固有の色であることができているわけです。
これって、とても不思議ですよね。
では、この事実をそのまま真っ正直に受け入れたら、それはどうい
うことを意味しているんでしょうね? (?_?)
ひとつ前提として認めなければならないのは、「カラーローズ」の
色彩で現れている現象世界は、現にあるということです。
このことを否定したら、話もなにもはじまりません。(*^_^*)
そして、ひとつ確認するために、ちょっとあなたに質問しますね。
あなたは存在していますか?
どうでしょう、自分が存在しているかどうかがわからない人がいる
でしょうか?
もし、あなたが、いやー、自分は存在しているかどうかわからない、
と言う人がいたら、あなたは存在しています。(^^;)
だって、確信のないあなたが、そこにいるからです。(^_-)
もし、あなたが、いや、自分は存在していない、と断言したら、そ
れでも、あなたは存在しています。
存在を否定したあなたが、存在を証明しているからです。
もちろん、私は存在しています、とあなたが言うなら、そのとおり
です。
もちろん、あなたは存在しています。
というわけで、いずれにせよ、あなたは自分が存在していることを
否定できません。
では、我々は、赤ん坊のときから、そのように存在していたのでし
ょうか?
それは、ちょっと違いますよね。
赤ん坊のときは、微睡(まどろ)んでいたと思います。
でも、気づいていたのです。
最初のうち、まだ神経系が調っていなかったときは、目が見えず、
耳が聞こえなかったかもしれません。
でも、やがて、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになって、
外界の刺激にも反応するようになります。
お腹が空けば泣くし、お母さんが笑いかければ笑うかもしれません。
でも、「あなたは存在していますか?」なんて聞いても、むろん、
答えないでしょう。
まだ言葉を学んでいないからです。
じゃ、そのとき、その赤ん坊は存在しているのでしょうか? (?_?)
(*^_^*)
こうなると、「存在する」という意味を確認しておかなければなり
ませんよね。
もちろん、その赤ん坊は、我々と同じような「個人」としては存在
していないでしょう。
でも、間違いなく、気づいていて、生きています。
だから、存在していない、とは言えない。
そして、それから少しずつ神経系を構成し、言葉を学習し、それに
基いて記憶を蓄積し、自分の物語を持つようになるわけです。
つまり、赤ん坊は最初から生命体としては存在していますが、個人
としてはまだ存在していないわけですよね。
ここで確認です。
我々って、「私は気づいています」とか言います。
それは、「私」が「気づいている」という意味でしょうね。
それは「私」が「気づき」を所有しているという意味でしょうか?
どう思いますか?
赤ん坊も、気づいている生命体でしたよね。
でも、そのときはまだ“自分”がいないわけですから、存在もしな
い“自分”が「気づき」を所有することなどできません。
実は、この不思議さが、もろに「カラーローズ」の不思議さに現れ
ているんです。
つまりですね、「私は気づいている」という語法は、本当はウソな
のです。(*^_^*)
本当は、「私」が「気づいている」のではありません。
「気づき」のなかに「私」という想念が湧いているだけなのです。
そして、赤ん坊のときはまだ言葉を学んでいないので、「気づき」
のなかに「私」という想念が湧いていないだけなのです。
でも、赤ん坊も大人と同じように気づいています。
じつは、「気づき」を所有できる人など誰もいません。
というか、「私」なんていつでもいるわけじゃなくて、「私」がい
ないときはいくらでもあります。
なんとなくポカーンとしているときは「私」はいませんし、だいた
い毎晩眠っただけで「私」はいなくなります。
つまり、「気づき」のなかに「私」という想念が湧いていないとき
は、「私」はどこにもいないのです。
でも、我々は普通「私は気づいている」という言葉を使い、この身
体の皮膚の範囲内を自分だということにしています。
なぜか、こういうことが起こるんですよね。
すると、我々がよく知っているこの人生のドラマを演じることがで
きるのです。
そこでは、ひとつの役割は他のすべての役割との相対関係のなかに
あります。
他のみんながいるから、この人生を演じることができるのです。
みんなで一緒にひとつのドラマを盛り上げているのです。
でも、みんなが本当に同時に一緒にいたら、すべては雲散霧消して
しまうのです。
そのことを、「カラーローズ」は伝えています。
だから「カラーローズ」という人間心理のパノラマは人生劇場の舞
台としてちゃんとあります。
ただ、そこでドラマを演じている“自分”だけが、本当は、いるの
かいないのか怪しいのです。(^_-)
人間の身体という有機体を自分と“思い込む”ことは「聖なる催眠」
とか「分離の夢」とか呼ばれるようです。
この“縛り”がとてもきつい時代もあれば、とてもゆるくなる時代
もあるらしいんですよね。
今日は変な話を聞いたなぁ、と思われるかもしれませんね。
気にしないで、すべて忘れてくださいね。
聞こえてしまうか、そうでないかのどちらかですから。^^;
ほんとに、この「カラーローズ」で展開される“人間心理”の世界
って、いったいどこに向かっているんでしょうね。
(*^_^*)
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
( http://p.tl/0WWA )。(-_-)
実際、この旅はどこへ向かっているのでしょう。^^;;
次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。
「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
というすばらしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
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