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巻頭エッセイ


第78号 ハートの鍵  その2

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■ 1.ハートの鍵  その2
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前回の巻頭エッセイに関して、とても嬉しい投稿をいただきました。
今回はその投稿をベースにしながら書いていきたいと思います。

前回のエッセイに反応がなければそのままにして、続きは書かないつもりでいま
した。

でも今回のエッセイを見て、その続きを書きたくなりました。

実は、この投稿の中に、前回あえて書かなかったもうひとつの「ハートの鍵」が
あるんです。

投稿は ran さんからです。

少し長い引用ですが、そのすべてがとても大切なことを教えてくれていますので、
全部を引用します。

ran さん
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 「今週の「ハートの鍵」で、
 「抵抗することなく、イエス、といって受け入れることが、そのこと
 から開放される近道なんです。」
 とありました。
 
 先週、まさしくこのことを体験し、今週のMLを見て「やっぱりそうな
 んだ!」と確信するに至った体験がありましたので、投稿しました。
 長文ですので、掲載していただける場合は余分な部分は削除してくだ
 さい。
 
 私の通勤手段は電車です。
 時々、新幹線のようにリクライニングシートがある快速電車にのりま
 す。
 最近は気の休まらない時間が多かったので、その日は帰りの電車はそ
 の快速電車に乗って気持ちを落ち着かせようと思っていました。
 
 快速電車に乗って、気持ちを落ち着かせようと目を閉じると、おばさ
 んたちの大きな喋り声と笑い声が聞こえてきました。
 その大きな声には、絶え間も周りへの配慮も無く、私はとてもイライ
 ラしました。
 その声を聞かないように色々やってみましたが、うまく行きません。
 自分の中から追い出そうと思えば思うほど声は却って鮮明になり、私
 の耳と心に突き刺さってきました。
 
 もう耐えられない、イライラは爆発寸前で私は頭を掻き毟り、車両を
 変えようと思ったとき、ふとあることを思いました。
 
 「あの声を受け入れたらどうなるだろう」
 
 半ばやけっぱちでしたが、もう一度目を閉じ、あの声はあれで良いと
 思い、心の扉を開いてあの声が私の中に入ってもよいのだとイメージ
 してみました。
 
 すると、さっきまでのイライラは嘘のように無くなって、一変してと
 ても穏やかな気持ちになったんです!!
 
 笑い声は相変わらず聞こえてはいますが、さっきまでのように鮮明で
 はなく、全く気にならなくなりました。
 
 反対に「笑い声」が聞こえることに感謝すらするようになったんで
 す。
 
 そこで私は気付いたんです。
 
 あるものを気にして追い出そうと意識すればするほど、私とそれとの
 境目は明確になり、それは余計に目立って感じられるのだと。
 
 反対に受け入れれば、私の中で淘汰され、私とそれとの境目は無くな
 り、意識的には全く気にならなくなるのだと。
 (それと同時に、私と周りとの境目も無くなった気がしました。無私、
 というのでしょうか?)
 
 同じように、いけない感情だと思っていた嫉妬や不快感も受け入れれ
 ば良いということ。
 
 本当に目が覚めた気分でした。
 
 そして今週、このMLで「ハートの鍵」を読みました。驚きましたが、
 このタイミングをそんなに不思議には思いませんでした。
 
 あの気付きを確信させるためだったかもしれません、本当にこのMLに
 感謝します。
 ありがとうございました。
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お礼を言うのは私のほうです。

ranさんはまさに、私が前回伝えたかったことを、それとは知らずにまさに実
践し、実証してみせてくれたわけなのですから。

ranさんがそれとは知らずにしたことが、ハートの瞑想でもあったわけです。

> 「あの声を受け入れたらどうなるだろう」
> 半ばやけっぱちでしたが、もう一度目を閉じ、あの声はあれで良いと
> 思い、心の扉を開いてあの声が私の中に入ってもよいのだとイメージ
> してみました。

これが「ハートで聴く」という瞑想です。

そしてその効果はranさんが書いておられるとおりです。

この瞑想のすばらしいところは、このように日常生活の中で実践できて、それが
実際にこれだけの効果を体験できるところなんです。

これってすごい!って思いませんか?

なんだ、そんなこと、って思うかもしれませんね。

でもこの小さなことが、実はとても大きなことでもあるんです。

これまでの瞑想は、例えば禅の修行のように、人里は離れた寺に閉じこもり、あ
るいはヨガ行者のように、ヒマラヤで、何ヶ月も、何年も修行し、瞑想のための
特別な修行をしたわけですね。

でもその坐禅を離れて、あるいはヒマラヤを離れて日常生活に戻ると、坐禅中に
どんなに無心の境地を体験し、神秘的体験をしたとしても、その瞑想はどこへや
ら・・・元の木阿弥、ってことになってしまいがちなのですね。

もちろん、そのような瞑想の境地を体験することはとても有意義なことでもある
んですが、でもそこには日常生活と瞑想との分離があるんですね。

でもハートの瞑想は、誰でも、普通の人でありながら、ただそのことを実践する
だけで、何年も修行した禅僧のような境地に、一瞬のうちになることができるわ
けなんですね。

ただそのようにするかしないかだけなんです。

>  その大きな声には、絶え間も周りへの配慮も無く、私はとてもイライ
>  ラしました。
> その声を聞かないように色々やってみましたが、うまく行きません。
> 自分の中から追い出そうと思えば思うほど声は却って鮮明になり、私
> の耳と心に突き刺さってきました。
> 
> もう耐えられない、イライラは爆発寸前で私は頭を掻き毟り、車両を
> 変えようと思った

これがマインドでなんとかしようとしている状況なんです。

まずマインドはジャッジします。

>  その大きな声には、絶え間も周りへの配慮も無く、

というふうに思うわけです。
もちろんそれはそうなんでしょうし、正当な判断でもあるでしょう。

そういうふうにマインドで思ってしまうと、マインドの中でどんなに自分を落ち
着かせようとしても、イライラはつのるばかり。

そこでせいぜいマインドが思いつくのは、車両を変えるか、おばさまたちに静か
にしてもらうようにお願いするかですね。周りの状況を変えようとします。

これが私たちが普通やることです。それはそれでもいいわけです。そういうふう
に私たちは生きているわけですから。

それもひとつの解決策ではあります。

でも、もうひとつの解決策があります。

それはマインドからハートへ。

そうすると世界はどう変わるでしょう?

> 心の扉を開いてあの声が私の中に入ってもよいのだとイメージ
> してみました

ranさんはすでにそのような瞑想の体験があるのかもしれませんね。

自然とハートの瞑想をすることができたようです。

> すると、さっきまでのイライラは嘘のように無くなって、一変してと
> ても穏やかな気持ちになったんです!!
> 笑い声は相変わらず聞こえてはいますが、さっきまでのように鮮明で
> はなく、全く気にならなくなりました。
> 反対に「笑い声」が聞こえることに感謝すらするようになったんで
> す。

周りの状況はまったく変わっていません。

でも、それを聞くranさんの世界を見る目、聞く耳は全く違ってしまいました。

あれほど気になった笑い声が、「感謝すらするように」なってしまったんですね。

同じ世界なのに、それをどのように受け取るかによって、まるで別の世界です。

でも、普通はなかなかこうはいかない場合も多いです。

そういう意味では、すぐにこういう境地になったというのは、ranさんはハート
瞑想のかなりの上級者ともいえます。(ちなみに、「感謝」というのはハートの
質です。)

あるいはすでにハートのスペースがかなりある人です。

こういうハート瞑想になじみのない方は、最初はもっと簡単なこと、例えば好き
な音楽などをハートで聴く、ということから練習をはじめていくといいですね。

それはともかく、前回あえて書かなかったもうひとつの「ハートの鍵」とは何か、
ということなんですが、それは、「抵抗することなく、イエス、といって受け入
れる」とき、そのとき、そこにハートがある、ということなんです。

前回紹介した、この

> 「抵抗することなく、イエス、といって受け入れることが、そのこと
> から開放される近道なんです。」

という趣旨の言葉はワドゥドが「第三の目を開く」のときに話していた言葉(私
なりの理解)でもあるんですが、実はそれよりも印象に残った言葉が、そのあと
に話したこの言葉だったんです。

「抵抗することなく、イエス、といって受け入れるとき、そのとき、そこにハー
トがある」

これは僕にとってはコペルニクス的発想の転換に思えました。

え?また大げさなって思われるかもしれませんね。

でも私にとっては、これは今まで、たぶん何度も聞いていながらこれまで気づか
なかっただけなのかもしれません。同じことを聞いていても、自分の理解がそこ
までに至っていないと、実際は聞いているようで聞いていませんからね。

それはともかく、これはどういうことかというと、今までは「ハートの瞑想」を
して、そこでいろんなネガティブな感情とか思考をハートで受け入れようとして
いたわけなんですが、でも、「抵抗することなく、イエス、といって受け入れる」
のは「ハートの質」なんだから、ネガティブな思考や感情を「抵抗することなく、
イエス、といって受け入れる」とき、そうすれば、そのときそのものごとにハー
トをもたらすことになる、っていうことなんですね。

言ってる意味、わかりますか?

つまり、今までは一生懸命ハート瞑想をして、その「ハート」に「ネガティブな
思考や感情を」感じようとしていたのですが、ただネガティブな思考や感情を
「抵抗することなく、イエス、といって受け入れる」とき、その「ネガティブな
思考や感情」の方に「ハート」を移動することができる、というようなイメージ
です。

私にとっての今の関心は、いかに普通のものごとを瞑想にしていくかということ
なので、この発見はとても大きなことだったんです。

でも、こんなことを言っても、瞑想を知っている方も、知らない方も、それが瞑
想なの? って思われるかもしれないですね。

それはそう思われてもしかたないかもしれません。

私は、学生時代から長年にわたってこれまでありとあらゆる瞑想をしてきていま
すが、その間、瞑想に対する考えもずいぶん変わってはきているのも事実です。

最初は坐禅などをしていて、それが高じてお寺に閉じこもって坐禅したこともあ
りますし、ヨガをしたり断食をしたり、その他のありとあらゆるさまざまな瞑想
を体験してきています。

最初は悟ることを求めて、あるいは無心であることとか、神秘体験を求めたりと
か、能力開発のためとか、こころに平安をもたらすためとか、性格改造とか、い
ろんな動機があって、そのためのいろんな努力もしたり、いろんな体験もしたり、
失敗もしてきました。

失敗といえば、例えば、ヨガなどでもほとんど自己流でたいていのポーズもでき
るようになって、シルシアサナのような頭で倒立するようなポーズを何分でもで
きるようになったりもしていたのですが、あるとき、「脳は非常に繊細にできて
いるので、ヨガの逆さ倒立のような、頭で立つようなポーズをすると、血流が脳
の許容範囲を超えて、脳細胞を破壊する」なんていうことを聞いて、深刻に悩ん
だこともあります。だって、それだともう自分の脳細胞は破壊されたあとですか
らね。

まぁ、いろんなことを試みて、無知からいろんな失敗もしてきていますが、そう
いう失敗をしないためには、きちんと知っている人に指導を受けたほうがいいと
いうことはありますね。とは言っても通常に瞑想をする程度では危険なことはな
いので瞑想はしてみてください。そして必要なときには、自分にその準備ができ
れば指導してくれる人も見つかるものです。

それはともかく、瞑想というのは、それで大いなる存在とひとつになったり、無
心になったり、自己がなくなったり、宇宙の愛を感じたりという、そういう体験
をしたり、そういう時間を持つこともとても大切なことでもありますが、でもそ
れが日常生活での瞑想になっていかなければ、1時間瞑想した後、あとの23時
間は瞑想と関係ないというのでは、何のための瞑想なんだろうって思ってしまい
ます。そう考えたたときに、日常生活の内面、外面の、そのときどきのことに意
識と気づきをもたらす瞑想をしていくにはどうすればいいのだろうということに
関心が移ってきたのです。

そういうわけで、そのワドゥドの言葉が、私にとっては瞑想に対する大きなヒン
トを与えてくれたわけなんですね。

たぶん、こういうことを言っても分かってくれる人は少ないでしょうねぇ。

でも、もしそういうことが分かってくれる人がいれば、そういう人に届けばいい
と思って、これを書いています。

ranさんの投稿に触発されてしまった感じです。

私にとってメルマガはこのような読者の方と対話ができること喜びです。

> そこで私は気付いたんです。
> あるものを気にして追い出そうと意識すればするほど、私とそれとの
> 境目は明確になり、それは余計に目立って感じられるのだと。

そのとおりですね。

それがマインドの道です。
競争であり、比較であり、批判であり、分析、分離、対立であるわけなんですね。

「私」「エゴ」ということの強化です。そうすると私と他のものの対立が鮮明に
なり、境界ができます。

> 反対に受け入れれば、私の中で淘汰され、私とそれとの境目は無くな
> り、意識的には全く気にならなくなるのだと。
> (それと同時に、私と周りとの境目も無くなった気がしました。無私、
> というのでしょうか?)

それがハートの道です。

ハートの愛であり、共感であり、感謝、そしてすべてを受け入れることのできる
スペース、イエスということ、空っぽな空間。
マインドはものごとを二元化し、その一面しか見ることができませんが、ハート
はその両面を同時に見ることができ、受け入れることができます。

ハートの中で私はなくなり、ひとつとなります。

> 同じように、いけない感情だと思っていた嫉妬や不快感も受け入れれ
> ば良いということ。
> 本当に目が覚めた気分でした。

そのとおりです。

それが目覚める、覚醒、ってことの一瞥でもありますね。

このように書いたからといって、マインドが悪いものだとは思わないでください
ね。

マインドは海の表面にたつ波のようであり、そこには個があり、個性があり、分
離しているのですが、ハートはその海の底のようなものです。どんなに海の表面
でマインドや感情の荒波があったとしても、海の底は静かであり、平和であり、
ひとつにつながったハートのスペースがあるのです。

マインドにはマインドの役割があり、外側の世界に対してはとても有効に作用し
てくれます。マインドは使うものであり、マインドに使われないことが大切です。

内なる世界での変容に、マインドは役には立ちません。

ハートにはハートの役割があり、内なる世界への入り口でもあります。

オーラ・ソーマはまた、そのような内なる世界への窓、入り口ともいえますね。

>  そして今週、このMLで「ハートの鍵」を読みました。驚きましたが、
>  このタイミングをそんなに不思議には思いませんでした。
>  
>  あの気付きを確信させるためだったかもしれません、本当にこのMLに
>  感謝します。

そしてハートはシンクロニシティの場でもあります。

ハートでつながっていれば、そのようなシンクロニシティはいろんなところに見
出していくことができますね。

私がプレイヤー瞑想について書いたら、前回はブルーミンさんが「プレイヤー瞑
想」の体験いついてシェアしてくれました。

このようにみなさんとハートでつながっているのを感じるのはとても楽しいこと
でもあります。

                               尚 記

もう少しオーラソーマについて知りたい方は、
次にお進みください。



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