第599w号 【パリさん】:Life:「生命」と「人生」
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:Life:「生命」と「人生」 (2015,12/23)
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ぱりさんは本も書いている著述家であり、多くのOSHOの本も翻
訳している翻訳者でもあり、いろいろなふうにものごとを考える哲
学者でもあります。
そんな彼が、オーラソーマのカラーローズから導きだされる人生論
を論ずるコーナーが、この【ぱりさんのオーラソーマ】です。
このカラーローズを理解し、あるいはカラーローズについて、自分
なりに考えることができれば、自分の力でオーラソーマのボトルの
メッセージを読み解いていくことができるようになります。
そういうヒントを、このぱりさんのエッセイから得ていただければ
と思います。
「カラーローズ」は人間心理のパノラマです。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/
このカラーローズとチャクラの理解とサトルアナトミーの理解は、
オーラソーマのボトルの秘密の扉を開くための3つの鍵です。
オーラソーマのチャクラの理解についてはこちら
http://aura-soma.jp/basic/dtl_163.html
サトルアナトミーの理解についてはこちら
http://aura-soma.co.jp/intro/subtleanatomy.html
また、ぱりさんの書いている、Life:「生命」と「人生」の理解に
ついては、過去と未来に生きることと、「今ここ」に生きることと
の違いについての理解が必要だと思われます。
ぱりさんは、過去と未来に生きることを「人生」、今ここに生きる
ことを「生命」というふうに言っているように思われます。
過去と未来に生きることと、今ここに生きることについては、次の
OSHOの言葉が役に立つかもしれません。
「今この瞬間を生きるということ」
http://ameblo.jp/oejbooks/entry-12105028020.html
「未来は現在から生まれる」
http://ameblo.jp/oejbooks/entry-12106402666.html
それでは、【ぱりさんのオーラソーマ】:Life:「生命」と「人生」
を、どうぞお楽しみください。
尚 記
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ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでおつきあいいただければ、
あんがい、おもしろがっていただけるかもしれません。
「カラーローズ」は人間心理のパノラマです。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/
この図は本当によくできた図で、おそらく人間が単なる思いつきで
勝手に創れるような図ではないのだろうと思います。
私たちは人生を生きていますよね?
つまり、いろんな出来事に出会って、そこでいろんな思考や感情を
体験して、ハラハラ・ドキドキを体験していると思います。
そして、もっと体験を深め、もっと理解を深めて、もっとよりよい
人生を生きたいと望んでいると思います。
その動機や願いや欲望、その原因や結果のすべての「人間心理」の
元型を網羅しているのが、われらが「カラーローズ」でした。
あらゆる動機や願いには、必ずその対極の動機や願いがあります。
その両者がひとつになると、それはただ消えてしまいます。
でもそれは、一方の動機が正しく、その対極にある動機が間違って
いる、ということではありません。
あらゆる動機や欲望は、一体性を願っていて、全体性を回復したい
のです。
でも、すべてがひとつである全体性を願うそのことを、個人幻想の
なかで実現しようとするのがこの人間ドラマなのです。(*^_^*)
「カラーローズ」はその人間ドラマにまつわる「人間心理」のすべ
てを元型として網羅しているわけです。
実際に現象する個々の欲望や動機には、相対的に“正しい”動機や
欲望と見なされものもあるかもしれません。
それは結果的に善意と呼ばれるかもしれませんね。
また個々の欲望や動機のなかには、間違った動機や欲望と見なされ
るものもあるかもしれません。
それは結果的に、悪意と呼ばれるかもしれませんね。
でもそれは、単にその人が担わされている“個人幻想”の、範囲の
大小を反映しているにすぎません。
そして人生では、どんな欲望でも、その目的が達成されたときは、
その欲望を持った当人は嬉しいんですよね。(^^;)
どんな欲望でも、その目的が成就しなかったときは、残念で悔しい
感情が待っているわけです。
そしてみんな、“自分”が担わされた条件下で、自分がそのゲーム
をコントロールしていると思っているわけです。
ね、ゲームのルールはとてもはっきりしてるでしょ。(^_-)
そしてこのゲームでは、正しい願いが成就し、邪悪な欲望が失敗す
るとはかぎらないことも、参加者は全員よく知っています。
それほど単純じゃないのが、このゲームですから。
また、どの願いが正しくて、どの願いが間違っているのかも、人生
ゲームの個々の登場人物にはそれほど自明ではありません。
人生ゲームには不公平はつきものなのです。
誰もが同一規格のロボットのように完全な既成品で、まったく同じ
に思考したら、そもそも人生ゲームなど成り立ちません。
その意味では、人生は不公平そのものともいえますね。
最初から不運で、花開くことなく、ただ萎れたままに、滅びていく
命は、それこそ掃いて捨てるほどあることでしょう。
また人並み外れの能力や財力、美しい魅力を備えた優者もいて、さ
らなる努力の末に大輪の花を咲かせることもあったりします。
この惑星地球だけを考えてみても、この星には現在、人間だけでも
七十億の生命が生きているそうです。
最初から圧倒的な強者もいれば、また圧倒的な弱者もいます。
そして、それぞれの命を懸命に燃焼させています。
なかには、こんなに不平等で不正義な人生は、最初から、なにか間
違っているのではないか、と思う登場人物もいるかもしれません。
ところで、ここに、とても不思議なことがあります。
それは、この人生ゲームに入ってきた最初のころ、つまり赤ん坊は、
まだこの人生の登場人物になっていないということです。
あなたは、自分の子供のころのことを、どれくらい遡って記憶して
いますか?
思いだせる最初の記憶は、どんなことですか?
その最初の記憶以前に、あなたの物語はありますか?
わたしたちは何度も何度も自分の人生の記憶を、修正しては、つね
に再構成しています。
今の状況に合わせて、辻褄合わせをしているのです。(^_-)
ところで、私たちの人生があるのは、過去の記憶のなかだけじゃあ
りません。
私たちの人生は、未来への想像のなかにもあるのです。
こんな話は、きっとどこかで耳にされただろうと思います。
でも、もしかしたら、ちょっと自分には関係のない話のように、思
われたかもしれませんね。
でも、このごろはこんな時代ですからね。
昔ならちょっと理解できないように思われたことでも、今は本当に、
誰もが簡単に理解できる当たり前のことになってきました。
人生が過去の記憶と、未来への想像のなかにしかないことを、もし
かして、あなたも、もう察しがついているかもしれませんね。
実はそれは、体験の記憶と体験の想像のなかにしかありません。
そこには実際の体験は存在していないのです。
その記憶と想像のなかで、つねに紡ぎ直されているのが人生です。
つまり、実際には、存在していないということです。(*^_^*)
ガーン! (@_@) ⌒★?
え、ほんと? って思いますよね。
でも、実際、こうしていつもつねに人生に対応して生きているのに、
それが存在しないって言われても・・・。
現に、こうして生きているわけだし。(-_-;)
ええ、わかります。
いま、こうして生きているのは、本物の生命(いのち)です。
でも、それは人生ゲームの登場人物じゃないんです。
実際は、もし過去の記憶と未来への想像という存立基盤が失われた
ら、人生ゲームの登場人物は存在できないんです。
英語に「life」という言葉があるのをご存知ですよね。
この言葉を日本語に翻訳するときは、その時の文脈に合わせて、
「生命」と訳したり「人生」と訳したりします。
それは、「生命」という言葉と「人生」という言葉では、日本語で
の連想野が異なるからです。
たとえば、赤ん坊が生まれてきたとき、この子が、いま生きている
「命」、「生命」であることを疑う人はいません。
でも、赤ん坊が「人生」を生きている、と言ったら、それはちょっ
と違うんじゃない (*^_^*)、って思いますよね。
赤ん坊は、まだ、「人生」をはじめていないでしょう、と。
ということは、英語で「life」の一語で連想される内容が、日本語
では「生命」と「人生」の二語に分けられていることになります
じゃ、英語では区別されなかったのに、日本語が区別しているもの
は、いったい何なんでしょうか?
赤ん坊は間違いなく生きている「生命」ですし、実際に「生命」を
生きています。
人間以外の動物たちも、間違いなく生きている「生命」です。
でも、大人の人間は、同じく間違いなく生きている「生命」ですが、
実際にその「生命」を生きているでしょうか? (^_-)
(日本語では、“「生命」を生きている”という言い方は、ちょっ
と変ですけどね。(^^;) )
いや、おそらく、大人の人間は、「人生」を生きているんじゃない
でしょうか? (^_-)
え、え!? (?_?)
なにが違うのっ、て思いますか? (^^;)
「生命(現象)」とは実際に起こっている体験のことです。
動物にも赤ん坊にも大人の人間にも、「生命」本来の「知性」は備
わっています。
でも、動物と人間が違うのは、人間には「知力」があることです。
人間にあって動物にない「知力」とはなにか?
それは体験を記憶として保持し、それを体系化して将来の状況に備
える能力のことです。
つまり、動物や人間の赤ん坊は、今起こっている状況に対して、た
だ「生命」本来の「知性」で応じているだけなのです。
なので、迷う余地がない。
この状態をわれわれは「野生」と呼ぶようです。
それに対して、大人の人間は、今起こっている状況に、過去の体験
の記憶も参照して、より的確で安全な判断をしようとします。
なぜ大人がそうするかというと、大人はただ今を生きればいいわけ
ではなくて、未来にも備えようとするからです。
人間は想像力が発達していて、過去の記憶から予想されるたくさん
の想像上の危機にも備えなければならないからです。
つまり、人間の大人は、今起こっている状況に対して、いつも過去
の記憶を検索し、未来に備えて対応を決めているのです。
この能力はまだ赤ん坊にはありません。
この能力を身につける過程が、躾であり教育なのでしょうね。
だから、赤ん坊は学習して人間になるともいえます。
そして人間は、状況に対応するのに、つねに過去の記憶からできた
“自分”のイメージを参照するようになります。
もう、「生命」と「人生」の違いは、わかりましたよね。
「生命」とは、<いま>を生きている命です。
言葉を換えれば、実際に起こっている体験とも言えるでしょう。
それに対して、「人生」とは、過去から未来へと流れる時間のなか
で生きることです。
だから、そこで起こる体験は、すばやく“自分”の「人生」のなか
で意味づけられ、組み込まれていきます。
そしてだんだん、体験自体よりはその意味づけの比重のほうが高く
なっていくわけです。
つまりわれわれは「物語」を生きはじめるわけです。
「人生」とは物語のことです。
そして、物語は、記憶と想像のなかにしかありません。
つまり、いま探してみたら、実際には、どこにも存在していないと
いうわけです。(*^_^*)
まだ、え、どういうこと、だってこうしていま人生を生きてますよ
(@_@) って思います? (^_-)
たしかに、われわれは「人生」を生きていますが、でもその人生は
ほら、これです、と見せることはできません。
だから、われわれは自分の「人生」を見せるためには、言葉を使っ
たり、過去の一場面である写真を見せたりするのです。
実際には、<いま、ここ>に存在していないからです。
英語圏の人たちも、もちろん、文脈に合わせたその意味上の使い分
けはしているでしょうね。
でも日本語の場合は、「生命」と「人生」という言葉として、最初
から別の言葉、別の概念が存在していたんですね。
この「人生ゲーム」とは、言ってみるなら、「なんでもないもの」
が「なにか」になるためのゲームと言えるかもしれません。
そしてそこでの“ゲームの規則”は、最初から公然の秘密として、
「カラーローズ」のなかに全部バラされているのです。
(*^_^*)
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこ
へ行くのか』(
http://p.tl/0WWA )。(-_-)
実際、この旅はどこへ向かっているのでしょうね。^^;;
次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。
「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
というすばらしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。
おつきあいいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
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