第438号 【パリさん】:カラーローズ—誰の表現か?
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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:誰が表現しているのか? (2012,11/21)
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今週のぱりさんのオーラソーマ、長いようなので(今週に限りませ
んが)、ちょっと要点を書いておきますね。
今回は、「人間は何を基準にして生きているの? (?_?)」
という深遠なる質問に、カラーローズで考えようというのだから大
それたことですよね。
つまり、そういう質問をオーラソーマで考えるってことですから。
でも、オーラソーマのよいところは、考えなくても、そのボトルを
実際に使っていけば、エネルギー的に解消してくれたり、理解を深
めてくれたり、メッセージとしてやってくる、というようなことが
右脳レベルで起こるということです。
だから、左脳の頭で考える男性にはなかなか理解されないけれども、
感性の鋭い女性に受け入れられるのは、そういうところに原因があ
る
のかもしれません。
でも、頭で考えることが好きな人でも、カラーローズからさまざま
な洞察を得ることができるので、オーラソーマには右脳から左脳ま
でのさまざまなツールがあって楽しめますね。
それはともかく、人間は何を基準に生きているのかというと、ぱり
さん曰く、
「これがわれわれ人間が生きている主観的“人間心理の世界”です」
というわけで、私たちは「主観的人間心理」のなかで、苦しんだり、
泣いたり笑ったりして生きているといいます。
でも、ぱりさんは、さらに、次のように言っています。
前回、「カラーローズ」のなかには“自分”もいれば“他人”もい
て、両方がそこに“対象物”として存在していると言いました。
「カラーローズ」のなかには“自分”も現象世界のなかのひとつの
“出来事”としてそこにいるわけですよね。
つまり、カラーローズは人間心理の曼荼羅だけではなく、対象物の
現象社会もそこにあるのだといいます。
そこで思いだしてもらいたいのは、オーラソーマは「意識の鍵」だ
ということです。
主観的人間心理の曼荼羅も、客観世界の現象世界の曼荼羅も、すべ
てがその意識のなかで気づいていられるということですね。
それが意識の地図として見た場合のカラーローズです。
人生の曼荼羅に気づく意識の鍵が、このカラーローズを使って読み
解くことができるというのです。
それでは、【ぱりさんのオーラソーマ】:誰が表現しているのか?
をお楽しみください。
尚 記
………○…………○…………○………
ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;
オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。
ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。
前回「カラーローズ」はオーラソーマがゲーテの色彩論を再発見・
再構築したオーラソーマ流の「曼荼羅」だという話をしました。
「マンダラ」というのは、その観点から見た“世界像”“全体像”
のことでしたね。
その観点から見ると、全体はこのように見える、このようにまとめ
られる、という最大限に圧縮されたイメージのことだと思います。
ところで、「カラーローズ」は何の「曼荼羅」でしたっけ?
もちろん、色彩の「曼荼羅」なんですが、でもそんなことを言った
ら、曼荼羅はすべて色彩で表現されていますものね。(^^;)
http://tinyurl.com/d4xdvn9
ええ、「カラーローズ」は色彩で表現した“人間心理”の曼荼羅で
した。
そしてこのシリーズでは、「カラーローズ」は内部に要素間の動的
力学を内蔵した“人間心理”の曼荼羅、と見立てたのでした。
ご承知のように、われわれ人間が生きている世界は客観的な対象物
によって構築されているわけではありません。
つまり、われわれは“客観的な世界”を対象にして、それを基準に
生きているわけではないのです。
もしそうだったら、人間とほかの動物との違いは、単なる動物種の
違いにすぎなかったでしょう。
もし“客観的世界”を「自然」と呼ぶことにすれば、人間は自然の
なかで食料を得て満腹すれば、それで満足したことでしょう。
それじゃ進歩がないじゃない (@_@)、なんて思われるかもしれませ
んが、それは単なる“人間病”の一症状にすぎません。(^_-)
他の動物たちはそんな“進歩”なんて、気にしていません。
本能に導かれるまま、食料を得、食べたら寝て、季節が来たら繁殖
し、子を育て、寿命が来たら生を終える、それだけのことです。
もし人間がそんな“客観的世界(自然)”を基準にし、その一風景
として生きていたら、こんな人間世界は生まれなかったでしょう。
人間はそういう客観的なものを基準にして生きてはいないのです。
え、じゃ、人間は何を基準にして生きているの? (?_?)
あなたは、どう思われますか?
人間って人生の大部分を、“自分”のなかに浮上してくる“思い”
に対応して生きているんじゃないでしょうか。
湧いてくるその“思い”に焦点を当てて、喜んだり、悲しんだり、
舞い上がったり、落ち込んだりしているんです。
その“思い”は、大きく分けるなら、過去の出来事の「記憶」か、
その類推から生じる未来の出来事の「想像」です。
われわれ人間は、絶えずこの「記憶」と「想像」にエネルギーを吹
き込んで、それを実体化させながら人生を送っているんです。
人間が生きているのは“客観的世界(自然)”ではなく、主観的な
“人間心理の世界”だと言ったのはその意味でした。
もしわれわれが“客観的世界(自然)”を基準に生きているのなら、
そこで満足するのは、ある意味でとても簡単なことです。
とりあえず食料を得て、満腹したら、もうそれだけで満足できるじ
ゃないですか。
あとはただ、眠ればいいだけです。(^_-)
ところがわれわれは、そういうわけにはいかない。
何よりもまず、未来のことを心配しなくてはならない。
今日のところはまず食べられたけれど、明日も食べられるとはかぎ
らないわけです。
またもし一応明日も食べられそうだったら、今度はもっと上を目指
して成長していかなければならないわけです。
なんやかんや、いろいろ大変なんですよね。(^_-)
イエスは山上の垂訓で、こうおっしゃったのだそうですが……。
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空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の
父は、これを養いたまふ。
汝らは之よりも遙かに優るる者ならずや。
汝らの中(うち)たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得
んや。
『聖書』マタイ伝第6章26節
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うーむ。(-_-;)
でもそんなこと言われたって、こんなに豊かな社会でさえ、失業者
もいればホームレスだっているじゃないですか。(@_@)
われわれは「空の鳥」じゃない、この世界で生き残っていかなけれ
ばならないんです。(-_-)
これが人間の観点であり、われわれが生きている世界です。
これがわれわれ人間が生きている主観的“人間心理の世界”です。
で、われわれとしては、もちろんこの世界で、満足できる道、幸福
になれる方途を探るのですが……、これが意外とむずかしい。
というか、じつは、これは不可能らしいのです。(>_<)
なぜなら、人間が生きている主観的“人間心理の世界”は“想念”
で構成されており、そこで落ち着くことはできないらしいのです。
インドのマスターOshoは『信心銘』という本のなかでこんなふうに
言っています。
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あらゆるものはあるべきようにある。
ただあなたがその中に落ち着かなければならないだけだ。
ただあなただけが落ち着いていない。
すべてはあるべき姿にある。
何ひとつ欠けてもいなければ、余計なものもない。
『信心名』(p68)
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> あらゆるものはあるべきようにある。
ホントですか? (?_?)
> すべてはあるべき姿にある。
> 何ひとつ欠けてもいなければ、余計なものもない。
ちょっと信じられないけど。(@_@)
> ただあなたがその中に落ち着かなければならないだけだ。
> ただあなただけが落ち着いていない。
うーむ。(-_-;)
いったい、どういうことなんだろう? (?_?)
こういう覚者がたは、何を言っているんでしょうね?
で、よくよくこういう覚者がたのおっしゃることを聴いてみると、
どうもこういうことらしいんです。
さっき、上でこう書きました。
> もしわれわれが“客観的世界(自然)”を基準に生きているのな
> ら、そこで満足するのは、ある意味でとても簡単なことです。
>
> とりあえず食料を得て、満腹したら、もうそれだけで満足できる
> じゃないですか。
>
> あとはただ、眠ればいいだけです。(^_-)
>
> ところがわれわれは、そういうわけにはいかない。
>
> 何よりもまず、未来のことを心配しなくてはならない。
と。
これは、われわれ人間からすれば当然の考え方ですが、どうもこの
“考え”は安心したり、落ち着いたりできる代物ではないらしい。
なぜか?
なぜなら、“考える”ということは“問題を想像する”ことであり、
それは取りも直さず“問題を創造する”ことだからです。
“考える”というのは、ある可能性と別の可能性を比較して、こち
らのほうが良さそうだと選択することですよね。
つまり、“考える”ということは、対象を何かと何かに分けて、そ
のなかで比較したり、迷ったり、選んだりすることです。
これでは、われわれが主観的“人間心理の世界”で、落ち着くこと
などありえないわけです。
だって“人間心理の世界”で生きるということは、現実を分けて、
比べて、迷って、選択する、ということなんですから。
この作業のなかで、落ち着くことができないのは自明です。
さっきOshoが、
> あらゆるものはあるべきようにある。
> ただあなたがその中に落ち着かなければならないだけだ。
> ただあなただけが落ち着いていない。
と言っていたこの「あなた」とは、“考える”ことを意味している
のだと思います。
どうやら、すべてが落ち着いている世界のなかで、この“考える”
ということだけは、落ち着くことができないものらしい。
でも、考えるなって言われたって (@_@)、と思いますよね。
われわれ人間は考えることによって人間になったのだし、こうして
文明も築いたのだから、と。
さて、そこで問題です。
われわれが“考える”というとき、そこで考えているのは“誰”な
んでしょうね?
変なことを言う、と言われそうですが (^^;)、これがなかなか微妙
なのです。
前回、「カラーローズ」のなかには“自分”もいれば“他人”もい
て、両方がそこに“対象物”として存在していると言いました。
「カラーローズ」のなかには“自分”も現象世界のなかのひとつの
“出来事”としてそこにいるわけですよね。
その“出来事”が考えているのでしょうか? (?_?)
「カラーローズ」のなかのひとつの位置は、ある“人間心理”の特
徴、ある“人格特性”を表す位置だとこのシリーズでは考えました。
それは自分はこうありたい、こんな表現をしてみたいと、何らかの
ギフトを願った位置だと、考えたわけです。
それは言葉を換えれば、何らかの意図を負った、欲望を抱えた位置
とも言えるかもしれません。
ただ無条件に、全知、全能では、表現にはなりません。
表現するためには何らかの定義を、制限を担う必要があるのです。
それは何らかの“条件”を担った位置とも言えるでしょう。
つまり、人格的な言葉では、それは「DNA」や「条件づけ」にも
当たるものでしょう。
「カラーローズ」のなかのすべての位置は、そのような制限を担っ
た位置なのです。
さて、われわれ人間が“考える”とは、その“条件づけ”が考える
ことだとも言えます。
誰がどういう状況で、どのように判断するかは、いわば運命によっ
て定められているとも言えるでしょう。
でも、われわれはそれを“自分”が考えているのだと思う。
そのことを「聖なる催眠」とおっしゃった覚者もいるようです。
うーむ。(-_-;)
われわれが考えるとき、いったい誰が考えているんでしょうね?
われわれが表現するとは、いったい誰が表現することなんでしょう?
現象世界のなかに“自分”という分離した実体があると想像した何
かが、その立場からすべての出来事を判断するのでしょうか。
その想像のなかに、本当のパワーはあるのでしょうか?
わからないことばかりですね。(-_-)
「カラーローズ」を見ていると、いろんな連想が出てきますね。
「カラーローズ」って、本当に素晴らしいです。(^^)/
次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。
いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。
「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>
pari 記
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