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オーラソーマ4本ボトル・ミニリーディング(無料)

巻頭エッセイ


第529w号 【パリさん】:カラーローズ—“自己同化”

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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:“自己同化”はゲームID (2014,8/20)
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オーラソーマのカラーローズ。
http://aura-soma.jp/basic/dtl_167.html

今回のぱりさんのお話は、ID(自己同一化)について。

オーラソーマは「自分は誰か?」という問いを問うための手段とし
て、魂の鏡として、オーラソーマのボトルを内面を映しだす鏡とし
て使っていきます。

そして、そのボトルの色は、カラーローズにすべてありますので、
そのカラーローズの色の意味を読み解くことで、自分は誰かを探究
していこうというのが、ぱりさんのオーラソーマの物語です。

色で自分の人生を読み解くひとつの試みとして、お楽しみください。

今日も素敵な一日を。

                           尚 記


       ………○…………○…………○………


ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;

オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。

ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。

前回、赤ん坊になくて大人にあるのは、“物語”だというお話をし
ました。

そして簡単に幸福になれない大人が、全員罹っている病気に名前を
つけるとしたら、“物語中毒”がピッタリかもしれないと。

赤ん坊が幸福なのは、赤ん坊がただ存在することに満足していて、
その幸福がこの世のどんな条件にも依存していないからです。

赤ん坊はまだこの世に組み込まれていません。

つまり、赤ん坊は“自分”の物語を紡ぐための文脈をまだ持ってい
ないのです。

なぜなら、“物語”の文脈とは本人が元々持っているものではなく、
すべて“聞いた話”にすぎないからです。

赤ん坊は、自分が一番頼りにしている存在が「私がママよ」と言え
ば、もちろん、それを信じるしかありません。

そして長じるにしたがって、自分が日本人であることを教わって、
そうか、自分は日本人なんだ、と“知った”りするわけです。

別のところで別の赤ん坊は、一番頼りにしている存在に、「あなた
は韓国人よ」と教わるかもしれません。

そして長じて、ともにサッカー選手になり、互いに日本VS韓国戦に
出場して、同じ戦いを両側から戦い、体験するかもしれません。

すると、同じひとつの現象に対して、別々の物語の別々の文脈から、
別々の思考と別々の感情が、つまり多様な現実が生じるわけです。

勝敗が決すれば、その試合は片側の物語からは名勝負として記憶さ
れ、反対側からは残念な試合として記憶されるかもしれません。

簡単にいえば、これが“物語”の誕生ですよね。

“物語”が生まれるためには、“物語”を紡ぐための文脈、つまり
“自分”が“誰”であるかを“知っている”必要があります。

この“自分”が“誰”かを決めることを、英文脈からの翻訳語で、
「自己同定」とか「自己同化」といいます。

英語の「identification」(アイデンティフィケーション)です。

これは「身元保証」とか「身元確認」の意味でもあり、要するに、
本人の帰属意識のことです。

この「自己同定」「自己同化」が、非常に感情を巻き込む状況を生
むことがあるのは、よくご存知だと思います。

現在、中東のガザ地区などで起こっている戦闘活動は、まさにこの
別々の物語への「自己同化」が原因で起こっているのですから。

第一次中東戦争のイスラエル側の呼称は「独立戦争」で、アラブ側
の呼称は「アン・ナクバ(大災害)」だそうです。

いかにも、という感じですよね。

(敢えて言うなら、「大災害」と呼ぶ方々の気持ちのほうがわかる
ような気もしますけど。(*^_^*) )

当人たちがそれを“正義”と“悪”との戦いと想像している可能性
大いにあります。

でも、外側から見ていれば、別に片方の物語だけが“真実”で、そ
の相手側の物語が“虚偽”というわけでないのは自明です。

というのも、元々「identification」とは「真実」を指す言葉では
なく、ひとつの“決め事”でしかないからです。

皆さんも、「identification」の意味の「ID」を、これまで色々な
場面で設定なさったことがありますよね。

それがその場での一瞬の“自分”の“名乗り”でしかないことを、
よく知りながら。

たとえば、「Skype ID」は●●、「Facebook ID」は▲▲、といった
具合で、これは単なるその場の状況での“名乗り”ですよね。

“自分”を永遠に「●●」に「自己同化」したわけじゃありません
し、それでは息苦しすぎます。

今回の地球の物語のなかでは“自分”は日本人の太郎で、この夏の
甲子園では◎◎県代表の▼▼高校生として出場するわけです。

とまあ、クールに言えばそういうことです。(*^_^*)

でも、そんなにクールでは、本当にはゲームを楽しめない。

そこにその状況に対する大変な“入れ込み”、つまり「自己同化」
が起こるわけです。

“自分”が“誰”であるかの“観念の種”をもらって以来、次々に
その“種”に記憶を追加してきた個々人の“物語”です。

そして今、大量の感情を呑み込んだ個々人の“物語”と“物語”と
のぶつかり合いが起こります。

だからこそ、毎年甲子園では、あれほどの懸命な戦いと感動と涙が
あるわけですよね。

なので、“自分”が誰であるかを決める「自己同定」「自己同化」
とは、一面ではたしかに、“決め事”“名乗り”なんです。

単なる“役の名前”、ゲーマーの「ID」にすぎません。

でも、完全にそのことに醒めていては、そのゲームに夢中になれな
い、というもう一面がある。(-_-;)

でもですよ、でも、もしひとたびそのゲームに夢中になって、われ
を失ってしまったら、いったいどういうことになるのか? (@_@)

どういうことになると思いますか?

そうなんです。(;_;)

“役”にハマったまま、そこから出られなくなるんです。

つまり、“名乗り”から降りられなくなる、ということです。

“自分”が、“誰か”だと思い込んでしまうわけです。(>_<)

いっときの“名乗り”だったはずのものが、大変な感情的エネルギ
ーを集積してしまって、“物語”が解体を拒むのです。

ふう。(-_-)

ちょっと、息苦しいですね。(^^;)

少し、話を整理しましょう。

最初に、赤ん坊になくて大人にあるのは“物語”だといいました。

赤ん坊は“自分”の物語を紡ぐための文脈をまだ持っていない、と。

じゃ、その赤ん坊には、“自分”があるんでしょうか、それとも、
赤ん坊には“自分”はないんでしょうか? (?_?)

ここ、難しいところですね。

誰かまわりの人に教えてもらう以前は、赤ん坊は“自分”が日本人
の太郎だということは知りません。

だから、赤ん坊には、日本人の太郎という“自分”はいません。

まず、これは間違いない。

じゃ、そこには誰もいないのか、あるいは何もない空っぽなのか?

もし、そこに誰も、あるいは何もないのなら、いったい誰が日本人
の太郎という“自分”を受け取ったのでしょう。(?_?)

(*^_^*)

いや、赤ん坊が「空っぽ」なんかじゃないのは、お母さんなら誰で
も知っています。

赤ん坊は、最初っから、気づいています。

赤ん坊は、最初っから、意識しているんです。

そして、ガラガラを目の前で振れば、目の見える子なら目でそれを
追いますし、耳の聞こえる子なら聞き耳も立てます。

赤ん坊は、見えていて、聞こえていて、意識しています。

「空っぽ」なんかじゃない。

と同時に、その赤ん坊は、日本人の太郎という“自分”は持ってい
ません。

つまり、まだ何者にも「自己同化」していないんです。

まだ自分を何者だとも思っていない。

でも、生きていて、気づいている。

何が生きているんでしょうねぇ? (-_-;)

ここで生きているもののことを、古来覚者たちは、「生命」とか、
「気づき」「意識」などと呼んできたわけです。

ニュアンス少しずつ違うでしょうが、「真我」とか「実在」とか、
「意識エネルギー」とか言ったりもします。

盤珪禅師(ばんけいぜんじ)という方は、それを「不生の仏心」
(ふしょうのぶっしん)と呼ばれたわけです。

歴史上のイエスは
「その心、幼子の如くあらずば神の国に入ること能わず」
とおっしゃったと伝えられています。

「幼子(おさなご)」とはこの赤ん坊のことでしょうね。

この「幼子」が、あっという間に日本人の太郎になるのです。

「意識エネルギー」が“聞いた話”を覚えて、“自分”が日本人の
太郎だと学習し、その記憶を再生し“物語”を紡ぐのです。

でも、日本人の太郎として現象世界に参加したら、いつの間にか、
すべきこと、しなければならないことがいっぱいある。

そしたら、今度は苦しくなって、生まれてくるんじゃなかったとか、
お前の母ちゃん出ベソとか、言ったりするんですよね。(*^_^*)

あはは。

人間の身体は、見た目には、環境から“離れ”ていて“独立”した
形体として動くように見えます。

その身体に「自己同化」するのですから、“自分”がまわりから離
れた“独立した”実体だと想像するのも無理はありません。

またそう思うと、今度はまわりの環境から分離した“自分”の運命
を想像して、いろんな願いや欲望が兆してきます。

自然の流れに抵抗して、“自分”の願いに近づけようと色々画策す
るわけです。

小さい頃は、大人っぽく見えたかったり、大人になったら今度は、
若く見えたかったり。

状況に抵抗したり、葛藤したりで、まあ、一言で言うと、楽でない
(dis-ease)状態、つまり病気(disease)になるわけです。

人間になるのもなかなか楽でないですよね。

どんな願い(=欲望)の形があるのかについては、オーラソーマの
「カラーローズ」に基本形が網羅されています。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/

でも、「二元性の原理」が支配する現象世界では、すべての欲望は
対極の欲望なしにはありえません。

個別体験のための身体がほしいと望めば(イエロー)、そこには必
ず身体の拘束から脱出したい願い(ヴァイオレット)もあります。
http://www.aura-soma.co.jp/newsletter/backnumber/dtl_948.html

これは偶然たまたまではなく、必然です。

そしてすべての欲望は“良かれ”と願ってのことなのです。

でも“良かれ”は“悪かれ”がなくては成り立たない。(;_;)

インドの覚者Oshoは子供の頃、当時有名なレスラーの試合を見物し
たことがあったそうです。

すると、そのレスラーは圧倒的に相手を打ち負かした後に、必ず、
地面に頭をつけて、相手のレスラーを拝んだそうなんです。

子供のOshoはあまりにも不思議なものだから、なぜそうしたのかを
そのシンとかいうレスラーに訊いたそうです。

すると、シンは「相手が敗北を受け容れてくれたから、私は勝者に
なれたんだよ」と教えてくれたというのです。

なんというか……。(-||-)

彼は自分が勝者になるには、敗者になってくれる人が必要であるこ
とを知っていたんですね。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこ
へ行くのか』
。(-_-)

実際、この旅はどこへ向かっているのでしょうね。^^;;

次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。

いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。

「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>

                          pari 記


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