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巻頭エッセイ


第459w号 【パリさん】:カラーローズ—知る者は…

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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:「知る者」は表現できない (2012,4/17)
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ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;

オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。

ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。

前に、「ブルー」には「ブルー」は見えない、みたいなことを書い
たことがあります。
http://www.aura-soma.co.jp/newsletter/backnumber/dtl_1338.html

これは、自分には自分の特徴は見えない、同類には同類は見えない、
くらいのニュアンスで書いたことでした。

でも、じつは、“青には青は見えない”という言葉には、もう少し
深遠な意味の層があります。

それを例えば、“青を見るものは青ではありえない”と表現してみ
てもいいかもしれません。

「青」にかぎらず、「赤」でも「黄」でも、こういう色を表す言葉
を使えば、誰もがすぐに“色彩の世界”を連想します。

ではその“色彩の世界”は誰が見ているのでしょうか?

果たして“色彩の世界”が“色彩の世界”を見られるでしょうか?

いったい“色彩の世界”を“知る者”は誰なのでしょう?

ちょっと、ピンときませんか。(^^;)

では視覚ではなく、味覚の世界で同じことを言ってみますね。

例えば、砂糖は「甘い」ですよね。

同じ白い粉でも、塩なら「塩っぱい」です。

では、砂糖は自分が「甘い」ことを知ることができるでしょうか?

それは、どう考えたって、無理ですよね。(^^;)

じゃ、しょっぱい塩なら、砂糖の甘さを知覚できますか? (?_?)

よくもそんな阿呆なことを聞くなぁと思われるかもしれませんが、
一応念を押しておきました。(*^_^*)

砂糖は「甘さ」のひとつの“表現媒体”で、その表現を“知る者”
ではありませんよね。

塩は「塩っぱさ」のひとつの“表現媒体”でその表現を“知る者”
ではありません。

「甘さ」や「塩っぱさ」を“知る”のは、身近な体験の世界で言う
なら、味覚器官の「舌」でしょうね。

でも、じゃ本当に「舌」が「甘さ」や「塩っぱさ」を“知る”のだ
ろうか、となるとこれまた一概には断定できません。

例えば、ふぐ料理に舌鼓を打っていた人が、そのフグの毒にあたっ
て死んだら、「舌」だけでは味がわからないでしょう。

「舌」は単に、“知る者”に味覚情報を伝えるための器官にすぎな
かったのかもしれません。

というわけで、いったい誰が“知る者”なのかは、簡単な話ではな
さそうですね。(^^;)

とは言え同時に、でも、わたしは「甘い」か「塩っぱい」かくらい
はすぐわかるよ、とおっしゃるだろうと思います。

そうなんですよね。

確かに、“わたし”は「甘い」か「塩っぱい」がわかります。

まあ、その“わたし”が誰なのか、なんですけどね。

でも、とりあえず、それが誰かはひとまず措いておきましょう。

そんな面倒なことは言わなくても、少なくとも味覚を“知る者”は、
味覚の表現媒体ではありえないことくらいは断定できます。

これだけは、間違いありません。

味覚を“知る者”は、「甘さ」にも「塩っぱさ」にも拘束されない、
どんな味覚からも自由な存在でなければならないでしょう。

【味覚】をちょっとググってみると、こうありました。

------------------------------------
 生理学的には、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが基本味
 に位置づけられる。
              http://ja.wikipedia.org/wiki/味覚
------------------------------------

この5つの基本味の組み合わせによって、多様な味覚世界が展開さ
れているらしいです。

とすると、味覚の感覚器官の「舌」は、「甘味、酸味、塩味、苦味、
うま味」のすべてからフリーでなければならないでしょうね。

そして味覚的偏りを持たない「舌」が、あらゆる表現的偏りを持た
ない「知る者」に、味覚情報を伝えるのでしょうね。

その意味では、味覚器官の「舌」とは、どんな表現とも無縁である
「知る者」の味覚部門代表とも言えるかもしれません。

味覚器官の「舌」は、味覚の世界でのどんな表現(味覚的偏り)か
らも自由でなければなりません。

もしそうでなくて、「舌」が例えば「甘み」に汚染されていたら、
その舌は「甘み」を正しく感じることはできないでしょう。

これでやっと、話を「カラーローズ」に関係のある“色彩の世界”
に戻せます。

さっき誰が“色彩の世界”を見ているのか?、と問いました。

今度は話の筋が見えてきましたね。(^^;)

“色彩の世界”とは色彩の“表現媒体”の集合のことですよね。

それはすべて、何らかの色彩表現(視覚的偏り)を担った“表現”
たちの集合です。

青は青が見えない、赤は赤が見えない、等々というわけですから、
“色彩の世界”に“色彩の世界”が見えるわけがありません。

“色彩の世界”とは“視覚的偏りの集合”のことなのです。

それは“色彩の世界”を「知る者」ではありえません。

ふーむ……。(-_-;)

じゃ、誰が“色彩の世界”を見ているの? (?_?)

誰が見ているのかは知りませんが、その誰かは少なくともあらゆる
“色彩表現”から自由な方であることだけは断言できます。

「視覚」をウィキペディアで調べると次のように書かれています。

------------------------------------
 視覚とは、光のエネルギーが網膜上の感覚細胞に対する刺激とな
 って生じる感覚のことである。「視覚」という言葉は、形態覚、
 運動覚、色覚、明暗覚などの総称として用いられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/視覚
------------------------------------

この記述からすると、「カラーローズ」が関係する“色彩の世界”
を担当する知覚は「色覚、明暗覚」と分類されているようです。

視覚器官の「目」は、どんな表現とも無縁な「知る者」の視覚部門
代表とも言えるでしょうね。

「知る者」自体は、どんな表現も担うことができません。

なぜなら、何らかの表現を担ってしまったら、その表現を“知る”
ことができなくなってしまうからです。

「知る者」自体は、いかなる“表現媒体”も担うことができない。

「知る者」自体は、いかなる“表現”も兼務できないのです。

なんか、当たり前のことをしつこく言っているなぁ、という感じを
お持ちかもしれませんね。(*^_^*)

でもね、これ必ずしも世の中の常識とは一致しないんですよ。

誰がこの“色彩世界”を「知る者」なんでしょう?

広い意味で、いったい誰がこの現象世界を「知る」のか?

「知る者」自体はいかなる“表現”も兼務できない、ということを
突き詰めると、何やらとんでもないことになりそうです。

「知る者」はいかなる“表現”とも無縁なんですねぇ。(-_-)

あ。(@_@)

じゃ、「知る者」は、どんな表現もできないんだ。(@_@)

うーん。(-_-;)

(*^_^*)

「カラーローズ」を見ていると、いろんな連想が出てきますね。

「カラーローズ」って、本当に素晴らしいです。(^^)/

次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。

いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。

「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>

                          pari 記


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