パビットラさんの「フラワーエッセンス」430f号SB篇第104回:第7身体 その35【日常とセッションに役立つチャクラ・サトルボディ・エネルギー解剖学】こんにちは、パビットラです。 マウントフジフラワーエッセンスからみたサトルボディ(エネルギーボディ)、エネルギーワークをテーマにしたこの連載、今回も、第7身体とその周辺についてのお話を続けていきましょう。 前々回と前回、現象という台風から、台風の目に戻る事の瞑想、気づきについてのお話をしました。 私達が、あらゆる現象を内外に自ら紡ぎ続けている事、そして、現象という台風からその中心に戻りリセットする事が、シンプルに気づきを育ててくれるといったお話でした。 “私”は、内側であれ外側であれ、対象化出来る全てのものに対して、常に概念化や印象付けを行っています。 人として常識だと思われているものも含め、よくよく観察してみるなら、そこには必ず“私”の概念化や印象付けのプロセスがあります。 「私は~~だ」、「あの出来事は~~だ」、「これは~~という事だ」といった風に、対象化したものを認識したり言語化したりする“私”の活動によって、現象は現われるのですね。 古の時代から神秘家達が言っているように、まさに「“私”がいるから、世界が起こる」、「世界は、“私”が創造している」わけです。 サトルボディ(エネルギーボディ)の次元に当てはめるなら、それらは主に下位身体の次元、感覚、感情、過去を司る第2身体(エーテル体)、想念、思考、過去世を司る第3身体(アストラル体)が関係していると言えるでしょうか。 現象は様々であり、“私”次第で、現われ、留まり、去っていきます。 感じる、考えるといった運動がどこから起こっているのかを観察していくなら、「現象が起こる源泉は、いつも同じ」である事に気づくでしょう。 上手くは書けないのですが、あくまで“個人的体験のレベル”で、現象を起こす源泉に戻る事について、書いてみましょうか。 “個人的体験のレベル”! 上位身体の言語化は矛盾だらけ、何をどう表現しても無理な感じです。 ですが、今回は、螺旋階段における段階的な方法という切り口で、あえて書いてみたいと思います。 螺旋階段は、幻想です。 でも、螺旋階段という幻想のステップを進んでいる最中に、人によって、その時々によって、役立つ“乗り物”があるのですね。 例えば、感情を解放するセラピーや、過去世を癒すヒーリング。 ひたすら座る瞑想や、神への祈り。 螺旋階段の引力圏では、「それ」に“至る”為の、何年、何世の、要らない事をする道のりがあるようです。 「それ」に至った人達の多くも、かつてはそんな道のりを通って来ているというのは、興味深い事です。 努力を手放す為に、努力し、 捨てる為に、熟成させ、 何をしてもしなくても失くさないものと出会う為に、何かを得ようとして。 そうでなければ、わざわざ地上に降り立ち、肉体を持つ必要があるでしょうか? 私達は、肉体に降り立つ事を通して、肉体を持った事のない存在とは違った道のりを歩む事で、二元性を超えて行く可能性を持っているのです。 (肉体を持った事のない存在の高次元も、現象なのでしょうが。) そして、道のりの時間や距離や次元の感覚といったものもまた現象であったと、気づくのかもしれません。 —現象を起こす源泉に戻る事のお話に、戻りましょう。 起こっている現象の様々に気づきを広げるのではなく、現象の周辺を見続けるのではなく、現象が起こっている源へと気づきを収縮していくなら、気づきは、とてもシンプルで簡単なものとなります。 気づく事を、対象やその周辺を観察する事としてしまうと、それは常に対象に依って変遷していく事となり、キリがありません。現象に現象を重ねる事となります。 下位身体を整える段階なら、これらは役立つでしょう。でも、その先に進む段階になったなら、この揺れ動きは役立ちません。 その“乗り物”は、手放される時期なのです。 面白い事に、中心へと収縮したなら、気づきを包む広大さと出会います。 それは、言語化出来ない「何かの感じ」と、直に出会っているような感じです。 というより、「何かの感じ」の直の体験そのもののような? その広大さの中では、言語化出来る“私”は不在で、同時に、存在の純粋なダンスが、ただ起こっている感じでしょうか。 まさに、上手く言語化出来ない体験です。 この、「体験」という認識や存在感さえ広大さの中に溺れてしまったなら、どうなるのでしょうか。 “私”には、想像する事が出来ません。 現象という台風、その中心に戻るシンプルな気づきは、「何かの感じ」の直の体験へと開いてくれます。 そして、段々と、日常の中にいながら、そこに戻れるようになっていきます。あらゆる現象の背後に、いつもそれがある事が、自然になっていくのですね。 空っぽさと共に、今、起こっている純粋なダンスを感じる。 例えば、いつもの道を歩き、いつもの木と出会う。 その木の直の体験に、圧倒される。 世界は今迄と変わりなくそこに在るのに、体験が、もっと直にある。 純粋なダンスは、“私”の概念化や印象付けによって、対象化されます。 世界が、現われます。 でも、現象が“私”によってどのように認識されているかに関係なく、純粋なダンスは、全てを振動させています。 現象よりも圧倒的に大きいそれに、“私”は降参するしかありません。 純粋なダンスを振動させるものを、もしかしたら、古より愛と呼ぶのでしょうか。 あらゆるものが愛そのものであり、光そのものであると、古の時代からこの世界で伝えられてきた事。 その愛は、人道的なものでもなく、霊的に進化して知るものでもなく、愛する気持や信仰によって理解するものでもなく、行為や形や意図でもなく、ただ、そうであるという、当たり前の事でした。 愛の振動に、対象はないのです。 あらゆるものは、愛から生まれたとも言えるのでしょうか。 愛の振動が何かの方向性や対象を持つ時、世界が生じるのでしょうか。 天と地の間の私達は、天に触れる事で、空っぽさへと消え去ります。 そして、地に触れる事で、空っぽさの内で生じるあらゆるものが、愛の振動を帯びている事を知らされます。 ないものと、あるもの。 無くなる事で、現われる事。 現われる事で、無くなる事。 ここにきて、愛の振動の入り口となるハートが、大きな鍵である事を実感します。 愛の振動は、地上の執着という枠から自由でありながらも、地上の現象のまるごとを承認する鍵ともなってくれるように思います。 そこには、何の問題もなかったと。 ハートの次元に深く入っていくなら、天と地の両方を体験しながらも、天でもなく地でもない、それらには属さないところに在る事を感じます。 二元性の縛りがなく、同時に、二元性を承認しているところ。 形が愛の振動から生じた事を知っているからこそ、形のそのままを受容するかのように。 だからこそ、ハートは、空っぽさへのドアとなってくれるのかもしれません。 ハートサポートシステムの「フラワーエッセンス講座」では、技法や理論以上に、行為の背後にあるエネルギーのトランスミッション(伝達)を大切にしている事、そこにこそエッセンスがある事を、何度となく書きました。 もしかしたら、トランスミッション(伝達)とは、空っぽさと形の狭間で、両方を承認し、起こるものだと言えるのかもしれません。 (つづく) *筆者パビットラのプロフィール* フラワーエッセンス(以下FE)開発者、指導家。富士山周辺に咲く花から日本で最初にマウントフジFEを開発。日本で初めてFEをワークに導入し、日本人初の関連書籍「バッチ博士のフラワーエッセンスガイドブック」を執筆し、その後、「マウントフジフラワーエッセンスとエネルギーの世界—花の“Being”—」を執筆。日本におけるFEの先駆的役割を果たし、ハートサポートシステム(有)、日本フラワーエッセンス協会にて、フラワーエッセンスを用いた各種セラピー、セラピストの育成、執筆、開発等に努める。心理療法家、カウンセラー、エネルギーワーカー、ボディワーカーでもある。「セラピー現場ですぐ機能する」をモットーにした講座の参加者は、セッションがきっかけとなった方から、セラピストや医療関係者迄幅広い。卒業生はプロとして活躍中。 |
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