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巻頭エッセイ


第513w号 【パリさん】:カラーローズ—自分と他人

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■ 1.【ぱりさんのオーラソーマ】:“自分”と“他人” (2014,4/30)
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ときどき、幕あいに顔を出す、「オーラソーマ」をちょっと部外者
的な立場から眺めてみる【ぱりさん】シリーズです。^^;

オーラソーマのカラーローズを“全人間心理のカラーインデックス”
に見立てて、その内部的なダイナミクスを連想して楽しんでいます。

ちょっと理屈っぽいですが、常識だけでお付き合いいただければ、
案外、面白がっていただけるかもしれません。

前回、“自分”と“他人”という感覚の前提には、その元型として
「主観」と「客観」という感覚がある、という話をしました。

何かを見たとき、その見る能力が「主観」、見られる世界が「客観」
という感じがあるわけですよね。

つまり、この目という“窓”から覗いているのが“自分”で、見え
ているあなたは“他人”だ、というわけです。^^;

じつは、ここにはとても微妙な“ズレ”があるのですが、それはま
たいつか機会があったら、ということにしましょう。

今回はちょっと、“他人”が何なのかについて、「カラーローズ」
的な観点から考えてみたいと思います。

あなたはこれまで、自分にはまったく魅力がない職業を選択する人
がいることを、不思議に思ったことはありませんか?

へー、どうしてあんな職業を選ぶのかな?、ちょっとわからない、
というふうに。

これはオーラソーマで言うなら、どうしてあんな色のボトルを選ぶ
のかわからない、というのと同様のことですよね。

まあ、相手が“赤の他人”なら、そんな違和感は普通はあまり問題
にもなりません。

そういう感覚の違いが問題になったりするのは、身近な人、たとえ
ば親子関係などが関わるときでしょうか。

話を職業に戻せば、子供がどうしてそんな職業を選ぶのか、親には
理解できなかったりするかもしれません。

あるいは、そういう親の感覚がわかっているだけに、とうてい自分
の選択を親に伝えられない場合だってあるかもしれません。

つまり“他人”ではないのに、まるで他人みたいな、理解できない
違和感のある選択をしている、ということですよね。

その違和感の原因になった“興味や判断”が何で決まるかといえば、
現代風に言うなら、“DNAと条件づけ”ですよね。

“DNAと条件づけ”は大部分両親からきますから、家族の場合は
その違和感が発生する可能性がいちばん少ないわけです。

この“興味・判断・趣味・嗜好”の違いというのが、“他人”のひ
とつの重要な属性だと思います。

でも、この関心や判断基準が違う人がいるということは、じつは、
とてもありがたいことでもあります。

ありがたいだけでなく、じつは違う関心を持った人の存在は、社会
という“人生の舞台”を構成する絶対の必要条件です。

この前新聞で、新宿の歌舞伎町で1年365日、一日二十四時間保育の
保育園を運営されている方の、記事を読みました。

また同じ頃、超高齢化社会への最前線で、自宅介護のターミナルケ
ア実現のために奮闘なさる方を追ったテレビ番組も見ました。

両方とも、切羽詰まっている人たちを放っておけず、自ら身を挺し
て求められていることを実現しようする方々でした。

世の中には偉い人がいるものだなぁ、と思いました。

このお二人の職業やその実践方法は、普通はあそこまではできない
よな、という感じがありました。

ところで、もしあなたがこのお二人と自分との距離を考えたとした
ら、強いて言えばどちらの方のほうが近いような気がしますか?

ひとりの方は、芽生えてくる命の危機を放っておけないのです。

もう一人の方は、滅びていく命の危機を放っておけない。

言葉を換えると、芽生えてくる命の可愛さに目を向けたいか、人間
の滅びの姿を見届けたいか、といった違いかもしれません。

どちらかと言えばこっち、という感じがあるかもしれませんね。

ところでたとえば、幼稚園の先生になるか、看護師さんになるかで
迷った、というような方はいるものでしょうか?

なんとなくの想像ですが、これは一般的な職業選択の“決断”範囲
以前の領域のような気がします。

で、心配をするまでもなく、その社会その時代にあわせ、その社会
を構成する様々な職業を満たす人々が現れるものです。

その時々に現れる“個人”たちが、その時代の職業を創造していく
ということかもしれませんが。

いずれにせよ個人には想像もつかないほど、多様な資質があるわけ
ですよね。

そして、翻ってみると、その意図の原型はすべて「カラーローズ」
のなかにあるのです。
http://www.aura-soma.co.jp/intro/color_language/

個々人をすべて直接、このカラーローズ↑のなかにマッピングでき
る、というわけにはもちろんいかないでしょう。

でもあらゆる人間の行動や思いの元々の意図は、このカラーローズ
のなかのどこかとどこかの組み合わせ、とは言えるでしょうね。

その基本的意図(欲望)の無限の組み合わせから、世の中のすべて
の職業が生まれている、とは言えるはずです。

では、その組み合わせは、個々人が自分で意識的に選択したのか?

もちろん、それはありえないでしょう。

たとえば、ある子供はあるときすばらしい物語を読んで、その物語
作者に憧れ、いつかあんな人になりたいと願ったかもしれない。

また別の子は、あるときすばらしいスポーツ選手に憧れて、いつか
自分もあんなふうになりたいと願ったかもしれない。

DNA、条件づけ、出合ったタイミング、どれひとつとっても当人
が“自分”で選択できることではありません。

また“自分”が不可避的に自分になったように、“他人”も不可避
的に他人になっていることは間違いありません。

今見ているこの目の“窓”が付いている身体が“自分”で、見えて
いる別の身体は“他人”というだけの違いです。

“他人”も“自分”と同じ状況だろうということは、じつは“自分”
も“他人”もみんな知っています。

ある意味で人格の違いも何もかも含めて、そういう不可避的な状況
が全部同じだということを、みんな知ってるんですよね。(^^;)

それが“他人”の、もうひとつの側面です。

さて、フランスの実存主義哲学者のサルトルは、「他人は地獄だ」
と言ったそうです。

なぜなら、人は“他人”に耐えて生きなければならないからです。

なぜ“他人”に耐えて生きなければならないのか?

なぜなら、“他人”を無視することはできないからです。

無視できるのなら、地獄にはならない。

ただ、無視すればいいだけです。(*^_^*)

でも、人間は“他人”を無視して人生を生きることはできない。

なぜか? (?_?)

ちょっと極端な状況を想像してみましょう。

たとえば、“自分”があるサッカー選手が大好きだとして、世界中
がそのサッカー選手で充満していたらどうでしょうか? (^_-)

見渡すところ、その選手しかいない。

もちろん、“自分”もその選手です。(@_@)

ぷ。(>_<)

これじゃ、やってられないですよね。

どんなミラクルシュートをしたところで、誰も褒めてくれない。

“自分”より上手い選手もいないけれど、“自分”より下手な選手
もいないんですから。

第一、サッカーばかりしてたら誰もご飯を作ってくれないし。(^_-)

殺伐とした世界です。

生きてる意味もない。(-_-)

それが“他人”の、もうひとつの意味です。(^_-)

つまり、“自分”が世界のなかで人生を送るには、“他人”は絶対
に必要なんですよね。

だから、人生を生きようとするかぎり、人は“他人”に耐えなけれ
ばならないわけです。

だから「他人は地獄」なんですが、ちょっと不思議ですよね。(?_?)

“他人”に耐えるって、“他人”の何を耐えるんでしょう?

“他人”の“自分”との違いに耐えるんでしょうか?

一見、そういう感じもします。

たしかに、こちらが親切のつもりでしたことが、相手にはまったく
通じなくて、逆に誤解されたりしたら、悲しいですよね。

でも、たとえば、何から何までわかっていて、何から何まで通じる
家族から離れたくて、外に出たいってこともありますよね。

つまり、人間には自分が知らないこと、違和感を感じることを求め
るという面もあるわけです。

それに極端な話、もし自分そっくりな他人がいたら、それもけっこ
う大変な状況かもしれません。

だから「他人は地獄」と言っても、その理由は“自分”と“他人”
のいろいろな属性の違いではない、と思うんです。

20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあるグルジエフは、
「他人を我慢するのは人間には不可能だ」と言ったそうです。

これはまた、断定的な言い方ですが、そうなのかもしれません。

“他人”の何が我慢できないんでしょうね? (?_?)

“他人”が“自分”と違うから我慢できないのかと言えば、どうや
らそうではないらしい。

自分とそっくりの他人だって、“他人”である以上はやっぱり気を
使わなくてはならないでしょうから。

じゃ、もしかしたら、“他人”は“自分”が気を使わなくてはなら
ないから、我慢できないのでしょうか?

“自分”がまったく自分のままでいられるなら、別に“他人”がい
てもかまわないのでしょうか?

たとえば、そこにいる“他人”が赤ん坊だったら、まったく気にな
らないかもしれません。

“自分”がまったく自分のままでいても、赤ん坊ならまったく気に
しないでしょう。

つまり、赤ん坊は“他人”じゃないってことです! (@_@)

相手が“他人”じゃないから、こっちも“自分”になる必要がない。

ということは、自分も赤ん坊のときは、“自分”じゃなかったわけ
です。

つまり“自分”って、生まれつきのものではなくて、学習したもの
だってことですよね。(@_@)

うーむ。(-_-;)

もしかしたら、自分が学習して“自分”になったから、まわりの人
も“他人”になったんじゃないでしょうか!? (@_@)

いやー、なんだか変なことがわかっちゃったなぁ。(^_-)

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこ
へ行くのか』( http://p.tl/0WWA )。(-_-)

実際、この旅はどこへ向かっているのでしょうね。^^;;

次に機会があったら、また「カラーローズ」を別の視点から眺めて、
勝手な連想を楽しませていただくかもしれません。

いつもお断りしているとおり、これは「オーラソーマ」で認定され
た見解ではありません。

「オーラソーマ」がゲーテの色彩論から引き継いだ「カラーローズ」
という素晴らしいツールに触発された、まったく自由な立場からの
連想です。

お付き合いいただき、ありがとうございました。<(_ _)>

                          pari 記


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